「ブリタル反乱(1)」(2019年12月16日)

スプリヤディSoeprijadi/Supriyadiは東ジャワのトレンガレッTrenggalekで1923年4
月に生まれた。小学校はオランダ系プラナカン子弟にオランダ語で教育を与えるELSに
通い、青年期にはマグランの官吏養成学校で学んでいたから、オランダ植民地制度下で下
級官吏を務めたジャワ人プリヤイ層がかれの家庭環境だったように思われる。プリヤイと
いうのはジャワの王族貴族階級であり、一般民衆にとっての伝統的支配階層を成していた。

日本軍のジャワ島占領でかれの人生は一大転換を遂げることになった。19歳のかれは日
本軍が設けたタングランの青年道場に志願して入隊する。

1943年10月3日、地元民族だけによる軍事組織編制を命じる治政令osamu seirei第
44号が布告され、ジャワ島にジャワ防衛義勇軍が発足した。軍隊組織を構成するための
指揮官養成機関がボゴールに置かれてジャワ防衛義勇軍幹部錬成隊と称し、タングランの
青年道場がその中に発展的に吸収された。

それがインドネシアでTentara Sukarela Pembela Tanah Air(郷土防衛義勇軍)通称PE
TAと呼ばれた純民族系軍事組織の端緒であり、スプリヤディはその発端から流れの真っ
ただ中を歩んだのである。


ジャワ防衛義勇軍幹部錬成隊で指揮官選抜考査が行われたとき、対象者は2,088人に
のぼり、その中には王家の息子、つまり王子、が11人含まれていた。ソロ王家が10人、
ヨグヤ王家が1人だったそうだ。

心身ともに健全であることは言うに及ばず、教育レベルが高いこと、社会ステータスが一
般民衆より高いことが指揮官にとって大きいメリットになるわけで、王族貴族の子弟はた
いていがその要素を満たしており、実際にPETA将校の大半がかれらで占められること
になった。ヨーロッパ諸国の軍隊を見ても類似の傾向が感じられる。ノブレスオブリージ
ュはかれらが戦場に出るときの動機でしかなく、王族貴族たちの戦場での役割は別のロジ
ックが使われていたことを理解するべきだろう。


PETAは地域を踏まえた軍隊構成を成し、大団から中団・小団・分団という階層構造で
構成された。大団は大隊に相当し、その中に中団・小団・分団を含んで522人の士官と
兵で構成された。中団は中隊に相当して80〜225人の要員を持ち、小団は小隊で26
〜55人から成っていた。

1943年末にはジャワ島を35の大団がカバーし、二年後にはジャワ島バリ島を69の
大団がカバーするに至った。総兵員数は3万7千5百人にのぼり、スマトラ島にはまた別
に2万人の兵員がPETAの戦力を支えていた。

だが誤解してはいけない。PETAが純民族系軍事組織というのはその指揮系統の中に日
本人が置かれていないという意味であり、この異民族武装集団を日本軍が百パーセント野
放しにしていたということでは決してない。各大団には二〜三人の日本軍将校と四〜五人
の下士官が関与し、管理・連絡・訓練などの分野を握って監視と監督の任に当たっていた。


1943年12月25日、クディリ州Karesidenan Kediriにはクディリに第一大団、ブリ
タルに第二大団が置かれた。第二大団は大団長の下に大団副官、本部小団、衛生係、演習
係、人事係、兵器係、経理係、物品係、大団旗係があって、大団指揮系統下にそれぞれが
三個小団を従えた四つの中団で構成されていた。スプリヤディは第三中団第一小団長であ
り、同僚の第二小団長はムラディMoeradi、第三小団長はスクニSoekeni、第三指揮班長の
スナントSoenanto分団長がチプトハルソノTjiptoharsono第三中団長直属の部下だった。

スプリヤディとムラディは共にボゴールのジャワ防衛義勇軍幹部錬成隊第一期生として学
び、厳しい訓練を互いに励ましあいながら乗り越えてきた同期の桜であり、肝胆相照らす
仲だった。ふたりは深い信頼関係で結ばれていたのである。

およそ半年間ブリタルでさまざまな訓練が行われてから、1944年5月にブリタル大団
は海岸部の防衛線として防御陣地や塹壕の構築作業を日本軍に命じられた。第三中団はブ
リタル県パングンレジョPanggungrejo郡セランSerang海岸やタンバッレジョTambakrejo海
岸での作業を受け持った。[ 続く ]