「バライプスタカ(2)」(2019年12月17日)

華人プラナカン作家たちは中国文学や世界の諸文学作品をムラユ語に移し替えたり、ある
いは自らの芸術性を誇示して韻文や散文の作品をものした。内容は、事件ものから歴史・
哲学・宗教ばかりか、歴史や政治などにも言及し、それらを新聞や雑誌に掲載した。

華人系ムラユ語大衆文学が盛んになったころ、ぼちぼちとプリブミ作家が文壇に登場し始
める。新聞メダンプリヤイMedan Prijaji編集者テイルトアディスルヨR.M.Tirtoadhisoer-
jo、Student HijoやMata Gelapなどの傑作を世に送ったジャーナリストのマス・マルコ・
カルトディクロモMas Marco Kartodikromo、政治活動家で投獄中にHikajat Kadiroenを書
き上げたセマウンSemaun、またアブドゥル・ムイスAbdul Muisやルスタム・エフェンディ
Roestam Effendiも名前の売れたプリブミ作家たちだった。

ヨーロッパ系プラナカン作家として著名な人物はオランダ系のヴィゲルスF.H.Wiggersと
コメルH.Kommerそしてミナハサ人のパグマナンF.Pangemanannで、かれらは作家としての
みならず、ジャーナリスト兼ムラユ語新聞編集者としても活躍した。かれらが使ったムラ
ユ語は通俗的ムラユ語でなく、ヨーロッパ人にもなじみのあるムラユ語、つまりBahasa 
Melayu Tinggiであり、ヨーロッパ人や華人プラナカンを読者層としたものだった。ヴィ
ゲルスは小説Njai Isahや劇作Lelakon Raden Beij Soerio Retnoを書き、パグマナンは
Tjerita Si TjonatやSjair Rosinaを世に送った。


しかし民間の文筆家たちは当時の数少ない知識層であり、おまけに反植民地運動・独立運
動の旗を振っていたのもこの知識層なのである。そして西洋文明化教育を受けた一般青年
層が読者となってヌサンタラの地に政治運動の波を盛り上げていった。

反植民地思想プロパガンダを煽る書物や文書は発禁処分を受けたが、そんな非誘導的な状
況は年を追って悪化していった。植民地体制下に民衆を文明化させようとした意図は、植
民地体制の拒否という反応に覆われてしまう。


民間から出てくる良書を探すような消極的な方法で民衆の文明化を図ろうという姿勢では
その状況に対処できないと判断した政庁は、自らが良書を作って植民地民衆に与えるべき
だという積極論に変化した。

1917年9月22日付けの政府決定書第63号で、植民地政庁は民衆図書ビューロー
Kantoor voor de Volkslectuurを政府内に設立したのである。植民地教育と民衆図書委員
会の機能はそちらに移され、委員会は生涯を終えた。

民衆図書ビューローは政府の出版機関ということになる。蘭領東インドにおける政府出版
機関はダンデルス総督が1809年11月22日に設けた国有印刷所Landsdrukkerijを嚆
矢とするようだ。

国有印刷所は民間を巻き込んで設けられたもので、当時の東南アジアで最高のレベルを誇
った。図書の制作出版を担う民衆図書ビューローが国有印刷所の建物を本拠地とするのに
まったく何の違和感もなかったようだ。国有印刷所は民衆図書ビューローに変身し、その
後インドネシア語でバライプスタカBalai Pustakaと呼ばれるようになる。オパイゼン式
綴りではBalai Poestakaと表記された。

日本軍がやってくるまでの間、バライプスタカは辞書、参考書、手引書から指導書に至る
実用書や文学・社会・政治・経済・宗教などの書籍、およそ350タイトルを出版した。

作品に使われた言語はムラユ語・ジャワ語・スンダ語・マドゥラ語で、ジャワ語の作品が
もっとも多かった。雑誌も発行され、ムラユ語のパンジプスタカPandji Poestaka、ジャ
ワ語のクジャウェンKedjawen、スンダ語のパラヒヤガンParahianganの三種が作られた。

ムラユ語のタマンカナカナTaman Kanak-kanakとジャワ語のタマンボチャTaman Botjahと
いう子供向け雑誌もあった。

プリブミ作家の文芸作品は、今や古典となっているマラ・ルスリMarah Rusliのシティ・
ヌルバヤSiti Noerbaja、ムラリ・シレガルMerari Siregarの破滅と悲惨Azab dan 
Sengsara、アブドゥル・ムイスAbdul MuisのサラアスハンSalah Asuhan、スタン・タッデ
ィル・アリシャッバナSutan Takdir Alisjahbanaの満帆Layar Terkembang、アッディアッ
・カルタミハルジャAchdiat KartamihardjaのアテイスAtheisなどが続々と送り出され、
またハジ・アグッ・サリムHaji Agus Salim、ドクトル・ストモDr Sutomo、アミール・シ
ャリフディンMr Amir Sjarifudin、マグンサルコロMangunsarkoroなどの各界著名人の作
品もバライプスタカから出されたものがある。[ 続く ]