「ブリタル反乱(2)」(2019年12月17日)

建設作業は地域の地元民が強制的に労務者に徴用され、PETA兵員たちと一緒になって
働いた。地元民の生活を支えるための勤労がその強制労働に挿げ替えられ、農民がほとん
どの地元民たちが生きていくための食糧生産ができなくなり、一方でほとんど報酬のもら
えない強制労働では夜中まで働かされ、栄養不良と過労が病気を引き寄せ、少なからず死
者が出た。

インドネシア語romushaあるいはromusaという言葉は日本語の労務者の意味ではない。そ
の言葉はインドネシアで強制労働者/奴隷労働者を意味しているのである。労務者という
言葉で呼ばれた人間とそこで行われたものごとの内容がインドネシアでその語義を生み出
したことは言うまでもあるまい。

一方でブリタルに駐屯している日本軍将兵のプルンプアン漁りも、性的に禁欲的なムスリ
ムであるかれらの目を覆わせるに足るふしだらな行為であり、その対象にされるプリブミ
女性への同情が高まった。

ひるがえって見てみるなら、ブリタル地区における日本軍政はオランダ人に負けず劣らず
の圧政を行ない、農民の収穫は収奪され、日本兵はプリブミ女性を手籠めにし、そして同
じアジアの同胞と言う口の下から人種差別が臆面もなく繰り広げられた。日本人のインド
ネシア人に対する差別、そして劣等視は、日本人が作ったPETAのメンバーに対してす
ら頻繁にその影をちらつかせた。日本軍はPETAの将校に対して、自分より下の階級で
あっても日本人将校に敬礼するよう義務付けたのである。


PETAの使命は元々、インドネシアの防衛が最優先事項であり、連合軍の進攻を日本軍
と共同して防衛し、もしも上陸されたなら民衆ゲリラとして抵抗戦を展開するという構想
になっていた。だが結果的に言うなら、連合軍のジャワ島上陸進攻は起こらず、日本軍と
入れ替わったNICA(オランダ植民地文民政府)との間でのゲリラ戦という皮肉な結末
になっていったのだが。

だからスプリヤディ小団長は担当地区のセラン海岸で毎日毎日インド洋を見つめながら平
和な日々を送っていれば、また運命が変わる日がやってきたはずなのだが、自分の運命を
自分の手で紡ぎ出そうとする若者の姿は今も昔も変わりがない。

その当時、かれがセラン海岸の波打ち際にある巨岩に座って瞑想に浸っていた姿を多くの
住民が頻繁に目にしている。クバティナンの世界に深く沈潜しているかれの姿がそれだっ
た。かれの若きプリヤイの血が義憤に燃えて泡立っていたのは間違いあるまい。スプリヤ
ディの胸の奥に、日本軍政を許してはおけないという気持ちが降り積もって行った。日本
人に一太刀浴びせ、一矢を報いなければ、ジャワ人としての誇りが許さない。スプリヤデ
ィは同志を探した。


初めての会合はハリル・マンクディジャヤHalil Mangkoedidjaja分団長の個室で行われ、
ムラディ小団長とスマルディSoemardi小団長の三人がスプリヤディと議論した。1945
年2月14日に勃発したPETAのブリタル反乱では、その四人が中心人物となったので
ある。タルムジTarmoedji分団長は同志だったが、かれは不審な人間を近付けないための
見張り役に徹した。

そのときの会合で四人の受け持ち分担が決められた。ムラディとハリルがブリタル大団内
で同志を糾合する。他の大団を誘って一斉蜂起を促すことをスマルディが担当する。スプ
リヤディはPETAの外部者、世間一般の大衆に反日抗争への参加を働きかける。

1944年6月、ブリタル大団の全将校が大団本部に集合を命じられた。大団長の新方針
説明が行われるのだ。説明会の行われる深夜の直前に、二回目の秘密会合がハリルの個室
で開かれた。そこにスダルモSoedarmo分団長とスルヨノsoerjono分団長が新たに加わった。

三回目の秘密会合に集まったのは12人で、スパルヨノSoeparjono小団長、SジョノDjono
小団長、スナルヨSoenarjo小団長、ダルシップDarsip小団長、スマントSoemanto分団長、
プジアントPoedjianto分団長が新たに参加した。衛生係イスマギルDr. Ismangil軍医中団
長は会合に出席しないが、既に同志を表明していた。[ 続く ]