「インドネシアの老舗出版社(後)」(2019年12月20日)

北スマトラ州メダンには、1949年から活動を続けている出版=印刷会社マジュMadju
がある。当時の独立インドネシア共和国ではまだオパイゼン式綴りが続けられていて、現
在の正書法によるmajuは当時の正書法でMadjuと書かれた。だからその時代に登録された
社名がいまだに使われている。

メダン市内ストモ通りの小さな書店プスタカマジュが出版印刷事業を開始して、学校教育
用教科書の印刷販売に特化した。小学校教科書は北スマトラ・アチェ・リアウで広範に使
われ、その品質に鑑みて中央政府教育文化省が全国の自治体に教科書の標準レベルを示す
ためのサンプルとして紹介したこともある、それは1985年ごろのできごとで、マジュ
出版社の名前は教育界に幅広く浸透した。印刷部数は7百万冊にのぼり、同社の黄金時代
が画された。今やメダンのマジュグループはメダン市内にホテルを二軒、そして病院を一
軒所有している。

全国の大都市に支店を開設し、ジャカルタではプロガドン地区に印刷所をも開いて中央政
府の教育行政に必要な印刷物の要請に即応できる体制が作られている。


インドネシア独立の初期の時代、プラッニャパラミタPradnya Paramitaという出版社が学
校教育のための教科書を供給していた。この出版社はオランダ時代のNV JB Wolters Uit-
gevers Mij、NV Noordhof Kolf Uitgevers Mij、NV W Versluys Uitgevers、NV H Stam 
Technische Uitgevers Mijという四つの出版社(株式会社)が合併してできたものだそう
で、インドネシア政府はこのプラッニャパラミタ出版社を国有事業体にした。つまり独立
インドネシア共和国政府はふたつの国有出版社を持っていたということになる。

1970年代に中学生だったひとの手記を読むと、かれが中学校で使った教科書の出版社
がプラッニャパラミタだったそうだ。小学校の教科書の出版社はまったく記憶にないらし
い。小学生時代にそんなことに興味を持つ子供はきっと稀な存在だろう。1964年発行
の教科書にプラッニャパラミタの住所はジャカルタ市クブンシリ通りとなっており、65
年発行の教科書ではジャカルタ市テウクウマル通りとなっていて、住所変更があったこと
を推測させる。

そのころ、プラッニャパラミタは小中高から大学までの教科書を出版していたようだ。そ
れらのインドネシア語で書かれた諸科目の教科書はオランダのものの翻訳版だった可能性
がその手記の中に述べられている。

最終的に民間の教科書出版社が力をつけてクオリティを向上させたためだろうか、プラッ
ニャパラミタはそのうちに鳴かず飛ばずになって2011年12月にバライプスタカに吸
収されてしまった。


他の老舗に比べれば年数はまだ短いものの、プスタカジャヤPustaka Jayaも有力な出版社
のひとつだ。プスタカジャヤの設立は1971年で、アスルル・サニAsrul Sani、アイッ
プ・ロシディAjip Rosidi、ラマダンRamadhanKH、イラファティ・スディアルソIrafati 
Sudiarsoたち文学者とジャカルタ芸術評議会Dewan Kesenian Jakartaメンバーが役員とな
って、チプトラ氏のジャヤラヤ財団の中に設けられた。資本金はアリ・サディキンAli 
Sadikin都知事がジャヤラヤ財団を経由して提供した。

その動機は、オランダ時代からバライプスタカが全力をあげて行ってきた文芸出版が19
60年代になって衰退の一途をたどったことに起因している。つまりプスタカジャヤは文
芸作品出版を理想の旗印として活動を開始したのである。

プスタカジャヤは今日でも依然として出版物の9割を文芸作品に充てている。最大のヒッ
ト作品はNHディ二DiniのLa Barkaで2万部の販売が記録された。他にもレンドラW.S. 
Rendraやプトゥ・ウィジャヤPutu Wijayaの作品が売れている。子供向けではマーク・ト
ウェインのトム・ソーヤのインドネシア語訳が1万2千部で筆頭商品になっている。
[ 完 ]