「ブリタル反乱(5)」(2019年12月20日)

しかしながら、反乱の中核の座にいて、大勢の人間をその挙行に巻き込み、行動計画を与
えて反乱軍を送り出したスプリヤディはその姿をかき消したのである。最終段階の軍事行
動にかれ自身は参加せず、硝煙漂うブリタルから単身でふっつりと消え失せた。だから憲
兵隊が逮捕した数百人の反乱者の中にスプリヤディの姿はなかったし、逮捕者のだれひと
りとしてスプリヤディに関する情報を持つ者もいなかった。

裁判にかけられる反乱者は3月8日にジャカルタに移され、軍事法廷は4月14・15・
16の三日間、法務部建物内で開かれた。しかし裁判が開始されるまでの間に、拷問で4
人が死亡している。

軍律会議と呼ばれた最終取調べと判決処分言い渡しの場には、オットー・イスカンダル・
ディナタOtto Iskandar Dinata、R.アビクスノAbikoesno、カハル・ムザキルAbd.Kahar 
Moezakkir、スポモ医師Prof.Mr.Dr.Soepomoの四人の社会的著名人プリブミとカスマン・
シゴディメジョKasman Singodimedjoジャカルタ大団長およびマス・スディロMas Soediro
クディリ大団長が特別傍聴人として出席した。

反乱者に下された判決は次の通りだ。
死刑6名:イスマギル軍医中団長、ムラディ小団長、スパルヨノ小団長、スナント分団長、
ハリル・マンクディジャヤ分団長、スダルモ分団長

終身刑3名:アミン分団長、プジ分団長、スカルディ分団長

服役15年6名:スカンダル中団長、バリ小団長、スナルジョ小団長、スナルディ小団長、
Sジョノ小団長、アディ・ウィダヤッ分団長、

服役10年6名:スヨノ分団長、スカルマン分団長、ムリヨノ分団長、スラッ分団長、ス
マディ分団長、ムジャリ義勇兵

服役7年4名:スハディ小団長、ダルシップ小団長、ソッファン分団長、イマム・バッリ
分団長

受刑者は4月17日にチピナン刑務所に送られ、そのうちの半数が4月29日にバンドン
のスカミスキン刑務所に移されている。


死刑囚6名の処刑は1945年5月16日にジャカルタ北部のアンチョル海岸で執行され
た。現在イーレフェルドEreveld墓地になっている場所だ。処刑方法は「日本軍の伝統的
処刑方法である」日本刀による斬首刑だったと書かれているインドネシア語資料ばかりが
見つかる。ムラディは日本人大佐が腰の日本刀をかれに渡したパフォーマンスに騙され、
結局日本刀で頭を落とされたというコメントがかれにまつわるインドネシアの定評になっ
ているように見える。

しかし旧日本軍の死刑は銃殺刑が正式方法であり、斬首はその規定に違反することになる。

陸軍刑法21条に「陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ陸軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場
所ニ於テ銃殺ス」とあり、海軍もこれに準じて、海軍刑法16条に「海軍ニ於テ死刑ヲ執
行スルトキハ海軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス」と定めている。

陸軍刑法の制定された1881年(明治14年)当初から、サムライ時代の伝統的処刑方
法が明治維新で一新されたことをそれは示している。明治維新がサムライ文化と武家社会
からの決別であるという理解は日本人の常識の中に確立されているのではなかったろうか?

インドネシア人筆者の認識不足はそれとして、本当は銃殺されたにも関わらず、その認識
不足のために斬首というイメージが頭にこびりついていたからなのか、それとも斬首断頭
という日本人の残虐性を故意に誘導しているのか、あるいは実際に斬首が行われたのか、
それがはっきりしないのである。そこにこのような事情がからまっているからだ。

オランダ語ウィキによれば、ジャカルタ北部アンチョル地区で日本軍政期に憲兵隊が行っ
た処刑に関する戦争犯罪調査が1946年6月に開始された。近くに古い中国寺院がある
一角には粗雑に作られたコンクリート構造物があり、中国寺院の番人から情報を得た調査
班は構造物周辺に4百から6百の処刑された遺体が埋められていることを知る。周辺一帯
が掘り起こされ、ひとつの遺体だけの穴から集団の遺体の穴までさまざまな規模のものが
明らかにされて、遺体は整理された。[ 続く ]