「語順のややこしいインドネシア語(終)」(2020年01月09日)

たとえば英語のcowboyだ。これをインドネシア語化するとanak laki-laki sapiとなるだ
ろうが、普通一般のインドネシア人にそのインドネシア語を聞かせても意味を把握しても
らうのは難しいだろう。辞書に従った言葉の置き換えを翻訳だと思っているひとにとって、
これは痛烈な教訓になるはずだ。

牛飼いという意味に語義を絞り込めば、インドネシア語にpenggembala sapiという単語が
あって翻訳作業はスムーズに行えるかもしれない。しかしアメリカ西部開拓史にあるカウ
ボーイという存在を視界の中に収めようとするなら、penggembala sapiでカウボーイとい
う言葉が持つ幅広い語感を表現できるわけがない。

結局インドネシア人はその発音を写し取ってkoboiというインドネシア語を作った。日本
ではカウボーイという言葉にあまりがさつな荒くれ男というイメージが付与されていない
ような気がするのだが、インドネシア人が抱いた印象は違っていた。

荒くれカウボーイたちが徒党を組んで馬を駆り、銃を振り回して撃ちまくる。酒場ではち
ょっとしたいざこざで暴れ、机や椅子をつぶし酒瓶を割り、窓ガラスを壊して大乱闘。だ
からインドネシア人に「あんたもコボイだねえ!」と言われたら、喜んではならないので
ある。


やはりDM法則に従わない熟語としてサンスクリット語源のものが挙げられる。サンスク
リット語はインドヨーロッパ語族に属すので、修飾語のかかり方はヨーロッパの諸語と似
ている。

maharajaはmaha⇒rajaであり、bumiputraはbumi⇒putra、dasawarsaはdasa⇒warsa、jati-
diriもjati⇒diriというように、前から後ろに修飾する関係になっている。だからperdana 
menteriは他のmenteri agamaやmenteri pariwisataのようにmenteri perdanaという使い方
がなされないのである。


同じくこの法則適用が例外とされているものに、数詞がある。三回・一人・5キロ・4年
など数詞が量を示すために使われる場合には、数字が前に置かれて後ろの言葉にかかって
いく。一回二回三回という場合はsatu, dua, tigaの後にkaliが置かれることになる。
orang, kilo, tahunなども同様だ。

一方、量でなく順序を表す数詞になるとDM法則が適用される。だからたとえば初回とい
う意味でpertamaとkaliを組み合わせれば、標準パターンはkali pertamaとなる。pertama-
kedua-ketiga・・・というのが序数詞なので、kaliの後にはそれらが置かれることになる。
ところが現実生活では、pertama kali, kedua kali・・・という使い方も大量に行われて
いる。

この問題をDM法則やらMD法則やらといった見方で眺めるのでなく、上でアンドレ・モ
レン氏が指摘しているように、意識の焦点が置かれている言葉(あるいは話者が重要と思
っている言葉)が前に置かれるという原理で眺めると、国語法則に対する違反行為という
支離滅裂の精神状態という印象が別の色合いを帯びてくる。

teh esというのは話者の考えがtehに向けられているのであり、次に来る言葉がその内容
を規定したり説明しているということだ。この見方を採るなら、数量を示す言葉empat 
tahunは話者の意識がempatに当てられていて、そのempatはorangでもなくkiloでもなくて
tahunなのだという説明になる。一方順番を示すkali ketigaでは意識の焦点がkaliに向い
ていて、そのkaliがいくつ目なのか、という内容を述べているということになる。

38,5kilometerは数量として述べられているのだが、kilometer38,5となればどこ
かの起点から38.5キロの地点を意味する。全国の自動車専用道にはKMXXの表示が
必ず置かれている。

kali pertamaとpertama kaliがあたかもシノニムのように世の中に繁茂しているのは、話
者が当てている意識の焦点の差がもたらしている結果であるのかもしれない。[ 完 ]