「民族を利口にする?(後)」(2020年01月15日) 篤信さや敬虔さ並びに高貴な言行が教育の中で重要でないということでなく、問題は、方 法論への関与が往々にして暗示的となり、諸価値の植え付けと行動主義的性格の習慣化と いう形を取ることによって健やかな理性の成育を妨げる結果をもたらす点にある。昨今わ れわれの教育が無統制にも、あたかも敬虔さや自己完成に到達する近道であるかのごとく 情動知能や霊的知能などというものにより強く惹かれるようになったとき、その状況は一 層悪化した。その結果として理知性は弱体化した。 わが民族の暮らしに投影されているチョイスや方法などとは別に、学習到達度調査PISAと 国際数学・理科教育調査TIMSSの結果も論理思考能力の弱さを示している。2012年P ISA調査結果では、インドネシアの生徒は低級認識能力が75.7ポイントというきわ めて高いスコアを得た。シンガポールはわずか8.3、韓国は9.1しかなかった。とこ ろが高レベル認識能力では、われわれの生徒はたったの0.3だったのに対して、シンガ ポールは55.4、韓国は30.9ポイントをマークした。国際数学・理科教育調査も似 たような結果を示した。8年生のサンプル選抜生徒は低級認識問題(知識)について70 %が正解を答えた。世界平均の83%よりちょっと低い程度だ。ところが高レベル認識問 題に対しては、正答率は45%しかなかった。 2013年カリキュラム編成と人格教育コンセプトは保護主義の魅力と無縁でないように 見える。2013年カリキュラムの中核思想は、すべての教育レベルにおけるすべての科 目に対して、教育プロセス内でのスピリチュアリズムを主流の座に据えている。教育の矛 先は宗教教義の実践と神的感応ならびにたいへん狭い範囲での性格とビヘイビアに向けら れた。 保守主義現象ならびに聡明さに関する誤解は、ある県庁が教育専門家と心理学者に支持さ れて小学校1〜2年生の読み書き計算の学習を廃止したとき、赤裸々に出現した。その年 代の子供は英知を注入する時期でないというのがその理由だったのである。あれこれの学 科を教えても子供たちの知性は発展しないのであり、その代わりに篤信さや敬虔さについ ての教育を与えてより深く宗教性を育むことの方が優先目標にされた。 < 教育の強化 > 単に行為の訓練やアイデアを教え込むのでなく、思考することそのものを教える面を強化 するようにわが国の教育はデザインされるべきだ。アイデアを教え込むというのは頭脳を 試験のときに知識データを引き出して使うための記憶装置にしているようなものである。 ところが思考することを教えるのは、現実生活に起こる問題の解決方法を見つけ出すため に脳を情報処理のツールおよび媒体にすることなのだ。われわれの学校教育は、学習到達 度調査や国際数学・理科教育調査が示している通り、やっとアイデアを教え込む段階に達 したところなのである。 思考することを教える場合、生徒は積極的に思考することに巻き込まれなければならない。 生徒は教師の思考に耳を傾けるだけでなく、一緒になってさまざまなアイデアを生み出す のである。誘導的な教師の役割と教育環境の支援が思考の教育にとっての核になる。この 思想は本当のところ、2003年法律第20号第1条第(1)項の教育の定義の中に盛り 込まれている。すなわち「・・・学習者が積極的に自己の潜在能力を開発するよう、学習 環境と教育プロセスを実現させる・・・」 英明化原理に関する修正はまず第一にメソッドとアクセスからなされるものであり、カリ キュラムを使って行うものではない。カリキュラムを改編しても英知が育まれることはな いのが現実だ。同様に、教育メソッドだけを改良したところで、同じ結果に至る。メソッ ドは教員個々人が身に着けるものなのだから、メソッドの改善というのは教員の能力開発 と表裏一体をなしている。 残念なことに近年の教員管理についての政府のビジョンは業績評価に重点が置かれて、業 務遂行における指導監督は軽視されている。そのために能力検定・業績評価・業務監督な どの活動が噴出している一方で、生徒に対する教員の個別指導に締まりがなくなっている のがその結果なのである。[ 完 ]