「独立宣言文起草の裏表(1)」(2020年01月20日)

ライター: アダン・マリッ財団事務局長、バシラル・ハミディ・ハラハップ
ソース: 2001年8月16日付けコンパス紙 "Sigetada Nishijima, Saksi Perumusan 
Naskah Proklamasi"

インドネシア独立宣言起草という歴史的なできごとに立ち会った唯一の生存者にインタビ
ューできたことは、わたしにとってたいへんな幸運であった。その人物の名はシゲタダ・
ニシジマ(西嶋重忠)氏(90歳)であり、かれは今東京のあるアパートに夫人と共に暮
らしている。私たちの会見はたいへん家族的な雰囲気の中で行われた。

わたしは1990年11月に中央ジャカルタ市デイポヌゴロ通り29番地のアダン・マリ
ッAdam Malik夫人邸でかれに一度インタビューしたことがあり、今回の2000年10月
10日東京都目黒区におけるインタビューは二度目である。

このインタビューは数日前にアレンジされ、当日訪れたわたしをシゲタダ・ニシジマ氏と
バンドン生まれの子息、ヒデキ・ニシジマ氏が温かく迎えてくれた。夫人は体調を悪くさ
れているとのことだった。

ニシジマ氏のような著名人と一時間フルに会見できたことはわたしにとって大きい名誉で
ある。かれはインタビューの資料を用意していた。その中にはアッマッ・スバルジョAhmad 
Soebardjoがかれに書いた1954年10月18日付けの4ページの手紙、アダン・マリッ
やブンハッタBung Hattaの手紙もあった。まだ切手の付いたままの封筒と一緒に、かれは
わたしにそれらの手紙を手渡した。かれ自身は日本語の回想録を手元に置いた。


ニシジマ氏は魅力的な人間だ。性格は陽気で、記憶力も鋭く、よく通る声をしており、イ
ンドネシア語・英語・オランダ語も流暢だ。日本軍政が始まる前、かれは最初チヨダとい
う名のトコジュパン社員としてジャカルタに住み、そしてバンドンに移った。日本軍が占
領する前にインドネシアの独立派青年層とのつながりが深かったことから、オランダ植民
地政庁はかれを逮捕してガルッGarutの政治犯抑留キャンプに入れた。そこには5百人ほど
が抑留されており、その中にはアダン・マリッ、アスマラ・ハディAsmara Hadi、SKトリ
ムルティTrimurtiなどがいた。

日本軍政期にかれはタダシ・マエダ提督(前田精海軍少将)の右腕となり、また通訳とし
て働いた。独立宣言前、かれはアダン・マリッ、スカルニSukarni、ハイルル・サレChai-
rul Saleh、エルカナ・ルンバン・トビンElkana Lumban Tobing、BMディアDiah、ウィカ
ナWikana、パンドゥPanduたち青年層に多大な支援を与えた。

ニシジマ氏へのインタビューで、わたしは話題を1945年8月16日夜に現在の中央ジ
ャカルタ市イマムボンジョル通り1番地にあるマエダ提督邸で行われたインドネシア独立
宣言文起草のできごとに絞った。

マエダ提督とニシジマ氏はインドネシアの独立宣言文起草にかれらが関わったことを連合
軍に一切漏らさないという決意を固めていた。インドネシア共和国の名誉を守ることがそ
の理由の一つだった。連合国は日本側の関与を既に嗅ぎつけており、インドネシアの独立
宣言は日本側の政治工作であると非難していたのだから。ニシジマ氏とのインタビューの
一部を抜粋する。


[問] ニシジマさん、1945年8月16日のインドネシア独立宣言文起草における日本
側の関与という連合国の非難に対するマエダ提督とあなた自身の姿勢はどのようなものだ
ったのですか?[ 続く ]