「インドネシアの反知性主義(前)」(2020年01月20日)

ライター: ジャカルタ国立大学社会学者、ロベルトゥス・ロべッ
ソース: 2016年4月25日付けコンパス紙 "Anti Intelektualism di Indonesia"

かつて2002年に、ボゴールのバトゥトゥリス地区に超自然の財宝があるという話しを
信じ、その発掘プロジェクトを指揮した大臣があった。最近ではある大臣が、LGBT病
はスパイスを使う温水療法で治癒できると語った。インドネシアの公共生活において、反
知性主義がいかに深く根を張っているかということを、上のふたつの例が示している。

いったいどうして、こんなことが起こりうるのか?一般人から公職高官やビジネスマンが
博士や教授の肩書を争って入手しようとしていたのではなかったか?今や修士課程があら
ゆる大学に設けられるようになったのではなかったか?オブザーバーや専門家が登場する
トーク番組が毎日TVにあふれているのではなかったか?

知性主義はアカデミックな称号の異名であったことがない。同様に、知性主義がオブザー
バーや諸分野専門家の多さを意味したこともない。ジェレミー・ジェニングスは1997
年に、諸メディアに専門家・オブザーバー・コメンテータがあふれているのは、インテリ
層の役割が下火になっていることを示すものだ、とまで述べている。これはどう説明され
うるのだろうか?

反知性主義とは、コンセプト・アイデア・思想を保持して思考重視型の姿勢を取ろうとす
る人間のあらゆる行動並びに、そんな枠組みの中で働く人間に対する拒否あるいは少なく
ともそれを低く見る現象だ。実態として、反知性主義はしばしばプライモ―ディアリズム
とイージーゴーイングな姿勢がベースにされている。基本的に反知性主義は進歩と逆方向
の動きなのである。それゆえに、反知性主義現象を理解することで、ひとつの社会の成長
発展がどうして遅れてしまうのかを解明することができる。そのためにわれわれが最初に
掘り下げなければならないのは、反知性主義の強まりの裏に何があるのかということだ。

アメリカの思想家リチャード・ホフスタッターはその記念碑的著作「アメリカの反知性主
義」(1963年)の中で、アメリカで深まっている反知性主義の三大姿勢を識別した。

ひとつ、反合理主義。それは多くの場合において、人間の叡知は人間を神性の絶対的現実
から遠ざけるツールでしかないと見なす狭い宗教的見解が生む姿勢である。

ふたつ、反エリート主義。アメリカ式コンテキストにおいてはさまざまな完璧さの実現形
態に対する拒否、つまりより広範な集団の意欲を満たす枠組みにおける特定標準に対する
拒否の形を取る。

みっつ、非反応的(非内省的)道具主義。すなわち生活におけるプラグマチックな姿勢を
強め、批判力を鈍らせ、コンシューマリズムを拡大させる資本主義市場論理の拡張の結果
としての道具主義である。

< 凡人政治現象と情報社会 >
ホフスタッターが挙げたアメリカにおける特徴のいくつかは、インドネシアにも見つかる。
インドネシアにも起こった類似のもののひとつは、狭い宗教的姿勢の発現形態としての反
合理性だ。そうではあっても、インドネシアで反知性主義の強まりはしばしば矛盾傾向を
持つ政治デモクラシー内の別の変化にも促されている。反知性主義を眺めるためにわれわ
れが使えるその立脚点のひとつは、マスメディアの民主化が煽っている凡人政治現象の中
にある。

報道自由化は、どこへ向かっているのかが予測不能な展開の中で、メディア産業・電気通
信・情報化の成長を促した。電気通信と情報に対するアクセスと自由の拡大は知識の民主
化を推進した。知識の民主化はより容易になった書籍や知識ソースへのアクセス現象に見
ることができる。われわれの社会に知識余剰が起こっていることは否定できない。

だとしても、そこに文化的イロニーが出現するのである。つまり量が質に反比例している
のだ。知識ソースへのアクセス拡大は社会における知識への尊重という新たな姿勢につな
がらなかった。その点において、形成されたのは責任ある生活コンセプトを踏まえて成長
する社会でなく、ひとつの情報社会、すなわち諸情報にコントロールされる公共生活だっ
たのである。

情報社会は、真に理解していないにも関わらずさまざまな情報を掌握しているという感覚
的なものによって、自分が知識を持っているとの思いを抱いている。情報社会はコンセプ
トの経緯や由来を理解する必要性を感じることなく、種々のソスメドにおけるさまざまな
公共論議に関わることを好む。そこでは、情報社会は顔見せするだけの公共関与モデルと
パラレルになっている。自分たちのしていることがより強力な現実的解決策を導き出すの
だと安易に考えることによって、かれらはある段階で自らの正当性を強く確信するように
なる。[ 続く ]