「インドネシアの反知性主義(後)」(2020年01月21日)

< インドネシアの反エリート主義 >
今日、グーグルとTVセレブリティの討論のおかげでひとはだれもが容易に、自分は知識
人になったと感じている。議論・沈思・考えるコミュニティはもはや無用になったと見ら
れている。そのために結局、コンセプト・オピニオン・セオリー・インテレクチャルはあ
まりにも抽象的すぎ、あまりにも難しく、ナウいものでないという見解が頻繁に出現し、
行き着くところは意見・ゴシップ・噂の方にコンセプトより高い価値が置かれることにな
った。インテリ層よりもセレブリティやオブザーバーが問題をよく掌握しているように見
られている。コンセプトよりもポピュラリズムの方が価値が高いのだ。

このポピュラリズム優位がマジョリティ正義思想を再生産するのである。より多くの人間
が好むものごとがより正しいのだという理屈だ。その点においてインドネシアの反知性主
義は反エリート思想を包含している。

ここで言う反エリート主義とはエリート/支配階層へのアンチを意味しているのでなく、
一般大衆の人気を集める形で流通していない見解・意見・思想へのアンチを指している。

インドネシアではそこでも、しばしば政治エージェント問題における社会的汚名のリサイ
クルが行われる。つまりまったく不適切な思想や理論を強い根拠として行動する者たちが
政界に入って来るのがそれであり、そんな者たちは結局、最終的にマジョリティ民衆の感
情や期待を理解する能力を持たない西洋びいきの浮き上がったエリートと位置付けられて
しまう。

反エリート主義がもたらす別のことがらは、精密な思考に対する嫌悪だ。厳格な論理で思
考を構築する者は簡単に、「硬直的」で「頭が柔軟でなく」、「世の中のダイナミズムを
理解しない」人間という目で見られる。この反厳格性も、ありとあらゆる状況にあっさり
と折り合いをつけようとする社会現象に反映されているようだ。


反知性主義は教育界にも現われている。教育界のビューロクラシー化は初等から高等まで
の学校教育におけるアカデミックな性質を変容させてしまった。学校では大勢の教員たち
が公務員業務のルーチンに縛られた結果、授業活動は上司の厳しい監督を受ける日常業務
の表現形態でしかなくなっている。そのために教員たちは自分自身を、生徒と共に考える
先達としてでなく業務を行う公務員と感じるようになっている。

大学のビューロクラシー化は大学管理と国家行政と実業界という関係の中で進展した。そ
の状況の中で大学は実力者への政治経済面の依存関係を構築するようになり、批判的な学
術的性格は弱まって融和的管理的体質が強まった。その中でインテリ層はエキスパートに
変化しはじめ、エキスパートに変身することで批判の次元が変化し、価値の付随しないプ
ロフェッショナリズムの一種に変わって行った。


最後に言いたいのは、政治の技術化の強まりもインドネシアの反知性主義を促進させたこ
とだ。政治権力が宣伝・イメージ・サーベイで技術的に入手できるようになってから、観
念化された政治はますます重要と見られなくなった。政治リーダーたちの多くは自分に関
する好論評だけを読み、プラグマチックな姿勢を取り、そうして政治の基本原則に立脚す
る姿勢を取ることを忘却してしまったのである。

反知性主義現象が強まればどのような不都合が起こるだろうか?反知性主義とは基本的に
アンチ思考でありアンチ批判である。緻密さや批判精神が失われて、何にでも折り合いを
つけることが励行され、徐々に反合理性が深まっていくなら、それは教育界に影響を及ぼ
し、凡人文化を育て、凡人世代を大量生産するだろう。

インドネシアはインテリ層の努力と歴史が作り出したものだ。その持続は、インテリ層が
監視とメンテナンスを行うことでしか実行できないのである。[ 完 ]