「独立宣言文起草の裏表(2)」(2020年01月21日)

[答] はっきり言って前田提督とわたしは、インドネシア共和国が日本の作り物であると
いう烙印をオランダに捺されないよう、インドネシアの名誉を徹底的に守ろうと努めまし
た。1946年12月末に戦争犯罪容疑者として留置されているESポハンPohan氏が別
の場所からガントゥガGang Tengah刑務所に移されてきて、前田提督の入っているダブル
セルに入れられ、前田提督はわたしの房に移されました。提督とわたしの前田邸における
できごとに関する取調べはまだ行われていなかったのですから、その措置は刑務所管理者
側のまちがいに他ならなかったのです。わたしたちはその奇貨をたいへん喜びました。宣
言文起草について何を正直に言い、何を黙っているべきかについて、ふたりで真剣に語り
合いました。当時オランダはインドネシア共和国が日本の作り物だという烙印を捺そうと
して、全力を挙げていたのです。どうしてそうなったのか?それは日付が‘45でなく、
日本の年号である‘05となっていたからです。取調べは4日間続き、わたしはいやと言
うほど責め立てられ、小便に血が混じりましたよ。でもわたしは最後まで認めませんでし
た。あのとき、わたしはほぼ36歳で、まだ忍耐力はありました。

[問] 宣言文起草のとき、円卓に着いたのは誰でしたか?
ニシジマ氏はそのときの様子を絵にかいて説明した。

[答] ここに前田提督、そしてスカルノ氏、ハッタ氏、スバルジョ氏、わたし、それから
吉住氏、陸軍の三好氏。宣言文の文章をどのように書くべきかについて協議しました。ス
カルニさん、ハイルル・サレさんなどの青年層は外にいました。かれらは強硬な表現を使
い、激烈な内容が書かれることを望んでいました。わたし自身は日本側であり、また国際
法も多少は知っていましたから、その宣言文を日本が承認したり賛成したりするようなこ
とをすれば、連合国は認めないだろうと思っていました。なので言葉は慎重に選択されな
ければならず、何度も変更が行われました。主権の移譲について述べるのに、dikasihkan
と書くかdiserahkanとするかが議論されました。それは駄目で、perebutanもわれわれは
承認しませんでした。結局pemindahan kekuasaanが残り、スカルノ氏自身はdiselengga-
rakanと書きました。インドネシア側は日本人がそこに関与したことを認めませんでした。

[問] ニシジマさんは宣言文起草のできごとについて、公表したことがありますか?

[答] わたしと岸幸一さんとで「インドネシアにおける日本軍政の研究」と題するインド
ネシアの日本軍政に関する日本語の書籍をひとつ出しています。それは1959年5月に
出版されました。独立宣言文起草に関することもその中に記されています。独立宣言文起
草にわたしが関わったことを報道したロンドンのBBCテレビや東京のNHKなどを加え
ると、百件を下回らないでしょう。

[問] 独立宣言文起草に日本が関与したことを認めようとしないインドネシア側の姿勢に
対してニシジマさんのご意見は?

[答] 独立宣言は真の歴史的事件であったというインドネシア側の気持ちはよくわかりま
す。だから日本人がその中に関わったことも認めたくないのです。

[問] 本当は独立宣言文起草の際に日本側も加わったのだというニシジマさんの説明に対
するインドネシアの指導者たちの反応はどうでしたか?

[答] わたしに対するインドネシア側からの公開反論はいまだにありません。現場にいた
当事者たちから、現場を覗き見た青年層や他の指導者層まで含めて、誰からも。[ 続く ]