「進まない民族の知性(後)」(2020年01月23日)

1999年の国民貧困者比率24%が2014年に11.3%に低下したとはいえ、2,
770万人という人口の低下はあまり進まなくなっている。福祉家族貯蓄プログラム(福
祉家族カード、スマートインドネシアカード、健康インドネシアカード、福祉家族貯蓄カ
ード)を通しての社会保護予算は2015年国家予算の1.7%(22.6兆ルピア)で
しかなく、それは1,550万人にしか届かない。毎年数百兆ルピアに達する借款返済予
算と比べてみるがよい。予算方針にラディカルな修正が必要とされていることをそれは物
語っている。

慢性的な貧困生活は圧制の結果である。地元現場の知恵は粉砕された。農民は自分の所有
地の作業者にされている。殺虫剤・除草剤の噴霧者、工場で作られた肥料の散布者、研究
所が作らせた遺伝子組み換えや雑種改良された種苗の植栽者という作業者に過ぎず、市場
メカニズムにおける交渉力は弱い。あらゆるものをエコシステムの外から金を使って入手
しなければならないのだ。

農業は文化の果実としての本質的意義を失った。「農業の最終目的は満ち溢れた収穫だけ
でなく、人間を鍛え、完成させることでもある。」マサノブ・フクオカ氏の教え(わら一
本の革命、1991年)がそれだ。

環境と開発に関する世界委員会の持続可能な開発の定義(1987年)は「将来の世代の
欲求を満たしつつ,現在の世代の欲求も満足させるような開発」とされている。

自然界の利用は天然のエコシステムを変化させるため、保存は必然である。天然資源経営
は一世代だけのためでなく数世代間における公平原理を満たさなければならない。国家資
産が一部の人間や企業に握られ、法規が平等な再分配を指向していない事実にそれを関連
付けるなら、構造的貧困の長い道程はまだまだ終わりが来ないだろう。経済・政治・社会
デモクラシーの活性化と学習の場としてブンハッタの夢の協同組合を立ち上げることは、
今でも決して遅すぎるものでない。資産の再配分、資本アクセスの均等化、民族的ゴトン
ロヨンは、共同体の連帯と表明に深くからみついた機構的大黒柱を必要としている。

< 利益闘争 >
知性の後退はトゥルーイズムの拡大、エネルギーを消耗させる些事、倫理の混乱、プラグ
マティズムの強まりなどから分析できる。エリート間の合意はベストの人選・トッププラ
イオリティ・民族利益の重視などを選択する方向に向いていない。そのほとんどは民衆に
とっての善事でなく、パワーゲームの色彩を帯びている。

ペトラル事件、フリーポート事件、あるいは恒例の森林原野火災の喧噪に、われわれは民
族利益支持者と反支持者間の、すなわち劣等感と自立精神を伴った用心棒‐親方関係の勢
力闘争のエピソードを再び見出すのである。未来への見解と決断のレベルにおける国の姿
勢と国家指導者層の行動はいまだわれわれの目に映ってこない。

わが民族はもとより他民族の犯した過去の失敗から学ぶために、われわれはインドネシア
性について沈思する必要がある。民族の実体はまとめられて、頭と心の進歩を達成させ、
悲惨の落とし穴・悔恨の堆積・民衆の貧困をなくすべく努めるよう、邁進しなければなら
ないのだ。

85年前のブンカルノの処方箋は決して古ぼけた思想ではない。それは絶えず意欲を呼び
覚ますものである。進歩は、最先端・最速・最新・一群のモニュメント的事物の散らばり
といった現代化のシンボルにのみ関わっているのではない。その本質は優れた世代を再生
産する持続的な苗床として真実・公平・知性向上を繁茂させることと同期していなければ
ならないのである。要は知識と善行の本性を花開かせることなのだ。ハンス・モーゲンソ
ウのテーゼにある通り、「民族の進歩の鍵は人間の性格にある」(国際政治‐権力と平和、
1948年)は依然として生きている。[ 完 ]