「大ストーリーの小さな挿話」(2020年01月23日)

2014年9月14日のコンパス紙に掲載されたNarasi Kecil dari Intel Jepangと題す
る記事は次のような内容を物語っている。

インドネシアでの三年半の日本軍政に関する大筋のストーリーは、そのほとんどに苦い感
情が込められている。だが大きなストーリーの中に隠れている小さなエピソードには、心
の揺さぶられるものも散見されるのである。

そう言われたなら、われわれはすぐにそのひとつであるタダシ・マエダ提督(前田精海軍
少将)のことを思い浮かべるだろう。かれは大日本海軍のジャカルタ連絡事務所である海
軍武官府の最高責任者であり、ジャカルタのメンテン地区にある自邸を1945年8月1
6日(木)の夜、独立宣言文起草のために提供した。そのおかげでスカルノやハッタらイ
ンドネシア民族のリーダーたちが安全に文章を練り上げることができ、今や民族の記念碑
となった独立宣言文が完成したのである。

そのとき、あまり知られていないが独自の役割を担った数人の人物がその場にいた。マエ
ダ提督が率いた海軍武官府の諜報部門長トメゴロ・ヨシズミ(吉住留五郎)、そしてマエ
ダ提督の右腕だったシゲタダ・ニシジマ(西嶋重忠)たちだ。ヨシズミはマエダ邸で独立
宣言文起草に没頭している民族指導者たちに付き添い、その作業を目撃した。かれは8月
17日朝のブンカルノ邸前での独立宣言発表の際に大日本陸軍と独立派青年層の間に武力
衝突が起こらないようにするため、間に立ってロビイングに骨を折った。

ヨシズミはまた、インドネシアの民族活動家タン・マラカと親交を結び、最終的にこの日
本軍将校はアリフという名前でインドネシア人になった。インドネシア共和国独立後、オ
ランダが繰り広げた軍事行動に対抗するためにアリフはインドネシア共和国に身を投じた
元日本軍人を集めて特別ゲリラ隊を編成し、ジャワ島東部地区で活躍した。1948年8
月、ブリタルでのゲリラ戦でかれはその生涯を閉じ、ブリタルの英雄墓地に葬られた。


ヨシズミの話はインドネシアでの日本軍政という大きな歴史の中の小さなページを開くよ
うなものだ、と雑誌Historia編集長のボニー・トリヤナは語る。歴史のさまざまなシーン
がすべて白と黒で色分けできるものでないことを、それは教えているのだ。

日本はインドネシアを含むアジアの数か国でヨーロッパの植民地主義者を追い払ったが、
そのあと日本がそれに成り代わってしまった。日本は国としてインドネシアの独立に手を
貸したわけではないが、インドネシアの独立運動に個人として共感を示した日本人は何人
もいた。日本の軍人の中のその一例がヨシズミであり、かれは自らその独立の動きの中に
身を投じた。倉沢愛子慶応大学教授はそう述べている。

インドネシア独立の歴史の中に秘められているミステリーに光を当てるものとして、ヨシ
ズミの話はたいへん意義深いものだ、とタン・マラカの歴史を研究しているオランダ人歴
史家ハリー・プゼはコメントした。

大日本陸軍の立場との間に整合性を持たせると同時に中立性をも確立させることを目的に
して、インドネシアの民族指導者らが独立宣言文の中に記されるべき適切な語彙を注意深
く選択するために、数人の日本の軍人がその協議に加わった。こうして「権力の移譲とそ
の他に関する事項は正確な方法で最短時日のうちに遂行される。」という文が出来上がっ
たのである。

言うまでもなく、これに関する議論が簡単に終わることはないだろう。