「独立に貢献した脱走兵(3)」(2020年01月28日)

1925年にハーグで生まれたオランダ人ヨハネス・コルネリス・プリンセンは通称ポン
ケ・プリンセンという名で知られている。かれはナチスドイツの占領下に落ちたオランダ
で、反ナチ活動闘士として名を挙げた。

戦後、かれはインドネシアを旧態復帰させて植民地体制に戻そうとするオランダ政府の現
地派遣部隊に加えられて、1947年にはじめてインドネシアの土を踏む。最初は西ジャ
ワのプルワカルタに配置され、その後ジャカルタ〜ボゴールと勤務地が移される間に、か
れはオランダ人が、そしてオランダ植民地政治体制が示すインドネシア人への人種差別と
侮蔑およびそれに裏打ちされた非人間的残虐行為をいやと言うほど目にして吐き気を催し
た。

かれは1948年に原隊を脱走してジャワ島をさまよっているとき、共産党系武装組織に
捕らえられてパティで投獄された。たまたま共産党武装集団への粛清を行っていたシリワ
ギ師団黒サソリ歩兵大隊がそこを襲撃し、かれは解放されて原隊に戻るよう勧められた。
しかし、かれはシリワギ師団に加わることを望んだのである。

1949年にオランダがヨグヤカルタに対する軍事攻勢をかけたとき、かれの名は軍籍番
号251121085を持つシリワギ師団第2歩兵大隊プルワカルタグループ参謀部員として軍籍
簿に記されていた。かれはチアンジュル〜スカブミ地区でゲリラ活動に従事した。

NICAにとって裏切者となったプリンセンが目の敵にされるのは当然だ。オランダ諜報
部隊はかれを捕らえようとやっきになったが、かれは何度も危機を潜り抜けた。1949
年8月10日にチアンジュルのチルトゥンギランCilutung Girangでオランダ陸軍特殊部
隊が展開した特別作戦も、かれを捕らえることはできなかった。

その年、スカルノ大統領はかれにゲリラ勲章を与えている。かれはオランダ国籍を捨てて
インドネシア人になった。


ナチスドイツ海軍がアジアに派遣したグルッペモンズン潜水艦部隊は、ドイツ本国が連合
国に降伏したとき、ジャワ島で最後の日々を送っていた。司令部は作戦行動中の全軍に対
して連合軍への投降を命じたが、投降するために同盟国日本の支配下にあるジャワ島から
抜け出して行けるわけがない。かれらは艦を捨てて上陸し、ボゴールに近いチコポ農園に
こもった。

ナチスドイツUボート部隊とチコポ農園の関係については、「南の島のUボート」
http://indojoho.ciao.jp/koreg/libuboat.html
がご参照いただけます。

終戦処理のためにジャカルタに派遣されてきたAFNEI軍はチコポ農園にいる西洋人が
ドイツ軍人であることを嗅ぎつけ、かれらを全員逮捕して捕虜収容所に入れた。

蘭印支配を復活させるために戻って来たNICAに1946年1月半ば、AFNEI軍は
260人にのぼるドイツ兵捕虜を引き渡した。NICAはドイツ兵捕虜をプラウスリブ諸
島のひとつ、オンルスト(Onrust)島に抑留した。

きわめて劣悪なオンルスト島の生活環境のため、デング熱・マラリア・飢餓などで抑留兵
はばたばたと死亡していった。かれらは生を求めてオンルスト島からの逃亡を企て、大勢
が警備兵の銃弾で生を奪われた。しかしそれに成功した者がふたりあった。潜水艦U−2
19乗組員だったヴェルナーWernerとロシェLoscheだ。

ふたりはジャカルタの海岸に潜入した後、インドネシア共和国人民保安軍にコンタクトし
て共和国軍に加わった。インドネシア共和国諜報機関生みの親ズルキフリ・ルビス
Zulkifli Lubis大佐がふたりをアンバラワに設けられた軍人学校に置いて諜報訓練教官に
した。[ 続く ]