「独立に貢献した脱走兵(5)」(2020年01月30日)

もうひとりの白人反オランダ闘士は女性だ。エリサベツ・ファン・フォーツハンセン
Elisabeth van Voorthangsen愛称ベティはドイツ国籍を持ち、1944〜45年に日本軍
に協力したことから、敵軍協力者としてイギリスとオランダの諜報機関がかの女の身柄を
追いかけていた。

共和国独立後の1945年にふたりの娘と共にバンドンで暮らしていたベティは、タシッ
マラヤ赤熊大隊指揮官アブドゥラ・サレ・ハシブアン中佐と出会い、その後ふたりは結婚
してベティはタシッマラヤに移る。

ベティの声がラジオタシッマラヤの電波に載るようになったのはそれからだ。ベティはそ
の活動を1947年まで続けた。


戦場におけるゲリラ戦で華々しく活躍した日本軍脱走兵部隊がある。28人から成るこの
部隊は全員が元日本軍人だった。シリワギ師団ティルタヤサ連隊に籍を置いたウマル・ハ
ルトノ中尉(退役・旧名はエイジ・ミヤハラ)が2013年10月15日に没してカリバ
タKalibata英雄墓地に葬られた後、最期のインドネシア在留日本兵になってしまったラッ
マッ・オノRahmat Ono少佐は栄光あるその特別ゲリラ隊の一員だった。そしてラッマッも
2014年8月25日に永眠し、東ジャワ州バトゥBatuの英雄墓地に葬られた。インドネ
シアの独立を維持するための戦争は今や忘却のかなたに沈みつつある。

ラッマッが1945年12月に日本の軍籍を捨てたのは、国が果たさなかった約束に自分
ひとりででも尽力したいという心意気だったそうだ。敗戦の報の下で、たくさんの戦友が
茫然自失となり、絶望して腹を切った者も少なくないし、中には気が狂った者もあった。
現実にかれ自身が自決しかけた、とラッマッは述懐している。

ラッマッの著述によれば、最初旧日本軍人の8割がバンドンに集まったそうだ。1946
年初め、全土の共和国軍にバラバラに入った旧日本軍人がヨグヤカルタに集められた。ラ
ッマッはそこでトメゴロ・ヨシズミ大佐やタツオ・イチキ大佐と知り合うことになる。ヨ
シズミはタン・マラカTan MalakaからもらったアリフArifの名、イチキはアグッ・サリム
Agus SalimからもらったアブドゥラッマンAbdul Rachmanの名を名乗っていた。


ヨシズミは左翼系民族運動の闘士タン・マラカとの親交を深め、その影響を受けて右翼か
ら左翼へと信条が変化して行ったらしい。ヨシズミはインドネシアに残るため日本軍人の
社会から身を隠してインドネシア社会に移ったが、そのとき海軍武官府の武器をかき集め
てタン・マラカのもとに運んだそうだ。タン・マラカはかれに賢明で頭脳明晰という意味
を持つアリフというインドネシア名を与えている。

イチキは有能な外交官だったハジ・アグッ・サリムと知り合って大層気に入られ、猶子と
して息子扱いされた。「父がかれを気に入ったのは、かれが誠心誠意インドネシア民族の
ことを思っていたからで、そのためアブドゥラッマンというインドネシア名をかれに与え
たのです。」とアグッ・サリム師の娘のひとりは物語っている。[ 続く ]