「恐怖の破滅性向(3)」(2020年02月12日)

人間の暴力行為は元来ケダモノだった人間が本来的に持っていた性向であり、世界を席巻
したヨーロッパ文明はすべての人間に対して、ケダモノ性を全廃して神(一神教が定義し
ているかれらの神)に近付くことを理想とする観念を強要したことから、暴力は問答無用
の悪事であるという倫理が組み立てられた。ケダモノ性から離れることが文明化だという
ロジックなのだが、人間は元来ケダモノのひとつだったのだという原理に立脚するなら、
人間存在がそのメカニズムを機能されるために本源的に持っていたケダモノ的な部分をそ
う簡単に滅却できるわけがない。

おまけにヨーロッパベースのこの文明化思想は人類を過保護の培養器に縛り付けようとす
る傾向を持っている。人類が弱く無能な存在であっても、存在を維持することが無上の善
であるという理想は、どう考えてもパラドックスとしか思えない。

インドネシア民族が持っている暴力性は「現代インドネシアの覗き窓」
の中にある[ 暴力劇場 ]
http://indojoho.ciao.jp/archives/in04.html
でインドネシアのトップ知識層が述べている通りの現実がある。

その一方で、ジャワ人に代表されるインドネシア人自身が、わが民族は世界で有数な穏健
で平和を愛する民族であり、他者に向けられる礼節と友好姿勢は疑う余地のないものだと
自認している。その矛盾の謎解きはこれまで続けて来た諸論に書かれている感情優位のイ
ンドネシア人と理性・知性との関係にあることで明らかにされているとわたしは思う。

中でもジャワ文化の中にあるkasar⇔halusやpanas⇔dinginなどの価値観は、ヨーロッパ
文明の襲来を受ける以前から類似の理想がジャワに構築されていたように見える。だが外
見は似ていても、本質は非なるものであったと言えるのではあるまいか。それらの価値観
を実践するのが異なる種類の人間であるのなら、その本質が同種のものになるはずはない。

エーリッヒ・フロムは1973年の著作「The Anatomy of Human Destructiveness」の中
で、人間が行う暴力行為は個々人のポジティブな発展を不可能にする諸状況に促されて起
こる、と述べている。その状況が人間の基本的メリットの実現を邪魔するために、人間は
サバイバルのための行動を起こすのである。

インドネシア人は本来的に非暴力的な民族であったのだが、フロムの説が示すように、植
民地時代から始まって、独立後にすら繰り返し行われた圧迫的締め付け政策などに影響さ
れて、サバイバルのために暴力行為が促されているのだという見方は、当たっているだろ
うか?

貧困・愚昧・差別待遇・基本的人権違反・公平感のないいびつな法制度・コンシューマリ
ズム性向などのすべてが、アグレッシブな行動を引き起こす怒り・無念さ・無力感を作り
出す根源になっている。インドネシア社会は自分が対峙している状況が生み出す怒りをそ
の体内に蓄積しており、容量の上限を超えれば爆発するというメカニズムが確かにヌサン
タラの地に働いているようだ。

インドネシア社会は別名、人間性可燃物とも呼ばれている。何らかのものごとを契機にし
て群衆(モブ)が形成されると、そこに何らかの刺激が加えられることによって暴動に発
展して行くのが、この社会の常道だった。人間性可燃物はいつでも爆発が起こるレベルに
まで怒りをその内部に蓄えており、だれかがマッチをすれば発火する。[ 続く ]