「恐怖の破滅性向(終)」(2020年02月14日) 自己を尊大視する感情的なものがそこに混じっていないという気はわたしに毛頭ない。人 間は常に価値観と共に感情を並行させて行為行動を行うものだ。価値観だけを取り出して 話をすると、観念思考者は往々にして感情はそこに混じっていないという受け取り方をし、 話者は感情の面を忘れているという反応を示す者すら出現する。 高等教育を受けた者ほど観念思考の取扱い技術に長じるようになり、それに応じた論理展 開が巧みになっていく一方で、テーマとして取り上げられていないが必ずそこに付随して いる付帯的なことがらはその論理展開の中で完全に無視される傾向がきわめて高いように わたしの目には映っている。現代教育手法が人間に与えている脳内作用における弊害の最 たるものがそれではないかと愚見しているが、わたしの愚見はなかなか世の中に通じない。 それはともあれ、強い男は優れた人間という価値観をいまだに佇立させている共同体社会 の少年たちは強さに憧れ、男の中の男たちが集まっていると自分が感じる世界に入ろうと する。任侠道、やくざの世界もそのひとつ。そのような世界に入って腕を磨き、世間から 賞賛される優れた男になりてえのよ。 組員になって肩で風を切り、あちこちの盛り場へ入って行けば、弱い連中は怖気をなして 引き下がる。怖気をなす連中は若い自分をいっちょ前の男に奉り上げてくれる。ナルシシ ズムの快感をこれほど噴き上げさせるものもあるまい。そこの対人関係の裏側に存在して いるのは、まだ潜在性でしかないとはいえ暴力というものの威嚇だ。 他人に怖気をふるわせるには、こわもてでなきゃいけねえ。誰にでもへらへら笑って愛想 を振りまくのは、真の男のやることじゃねえ。オレを強い男と認めて、親切をしてくるや つは弱い人間なんだ。強い男は世の中みんなが親切にし、奉り、笑顔を向けてきて当然な んだぜ。そんなことはされて当たり前。お愛想返しに微笑んでやったりすりゃあ、足元を 見られるだけだ。 バリ島内で自分で車を運転していると、他の車に便宜を譲ってやっても二コリともしない 運転者にときどき出くわす。バリ人のその種の性向は: 「デンパサルでやくざ出入り」(2015年12月22〜24日) http://indojoho.ciao.jp/koreg/ybali15.html 「クロボカン刑務所でまた暴動」(2016年4月25日) http://indojoho.ciao.jp/koreg/jcrime16.html などの記事に見られるものと通じているとわたしは見ている。 インドネシア人は親切で優しいという評判を獲得しているようだ。それについては、「親 切で優しいインドネシア人」 http://indojoho.ciao.jp/koreg/kysasin.html で取り上げたことがある。 しかしインドネシア人というのは千差万別・十人十色なのである。たとえ民族的な一般傾 向がそうであったとしても、一旅行者がインドネシアで接する数十人のインドネシア人が 金太郎飴でないのは明白ではないのだろうか? インドネシア人は、たとえば緑色だと言われているのに、わたしが会ったインドネシア人 は黄色だったよ、と驚いたように体験談を語るひとがあることにわたしは驚かされる。そ れが観念思考教育の弊害であることに、人類はいつになったら気付くのだろうか?[ 完 ]