「値段の種類」(2020年02月21日)

ライター: 国語オブザーバー、アルフォンス・タルヤディ
ソース: 2008年1月11日付けコンパス紙 "Harga"

Ada rupa ada harga.ということわざはKBBI第3版で、物の値打ちは物の状態で決ま
る、と意味付けられている。バケツや鍋のようなシンプルな物を買う場合、金額で物の値
打ちを計れば物の状態にふさわしいかどうかが容易にわかる。ところが、たとえば書物を
買うような場合、事態は変わって来る。

ジャカルタで1983年に開かれた「出版の経済ファンダメンタルズ」と題するセミナー
でイギリス人講師は、書物の販売価格に原価の三倍から五倍という値付けを行っているイ
ンドネシアの出版業界を批判した。その公式は書物の質的内容と著者の評判が勘案されて
いないものだ、と講師は語った。インドネシアで書物は、アイデアの素晴らしさ、知性、
創造性などとはおかまいなしに、まるでおやつ菓子みたいに売られている、とリー・チャ
ルリー氏は嘆いている。

しかし最近、友人のひとりが物語ったところによれば、かれが出版したマーケティングに
関する書物が一冊10万ルピアで飛ぶように売れているそうだ。5万ルピアでも損になら
ないものなのだが、とかれは言う。これは著者の役割が高く評価されていることを意味し、
また同様に、あらゆるエキゾチックなものに酔う傾向を持っているひとびと向けビジネス
モデルに倣って書籍出版界が一般的に行っているようなスーパー特殊製品への特別キチガ
イ価格型値付けをしていない。ジャカルタでそのエリート好みの商売では、ファンタステ
ィックな値段でアラスカ蟹の料理が販売されている。一皿1千8百万ルピアだ。


つまり物の値段は妥当、高い、ファンタスティック、キチガイというようなものになる。
わたしはそこに、フィランソロピー値段を加えたい。ギリシャ語のフィロスphilos(愛、
愛すること)とアントロポスanthropos(人類)から成るこの言葉は人類への愛を意味し
ている。より広義な意味合いにおけるフィランソロピーとは、たとえば苦難を軽減させた
り、社会福祉を高めるために寄付を行うような行為を意味している。

フィランソロピーは2003年ブキッティンギBukittinggiでの第5回文化会議で検討さ
れた。残念なことに、文化建設におけるこの思想の具体行動に触れることはあまりない。
多分フィランソロピーが規模の大きさというポイントから見られているのが原因かもしれ
ない。古代ローマ時代、芸術のパトロンはガイウス・キルニウス・マエケナスGaius Cil-
nis Maecenas(紀元前70〜8年)に倣ってメセナスと呼ばれた。かれは大金持ちの政治
家で詩人たちを庇護した。現代のフィランソロピーは、Aノーベル、Gソロス、Kイナモ
リらが興したようなヒューマニズムのための大型援助機関に関連して用いられている。イ
ンドネシアで億万長者のフィランソロピストはまだまだ稀だ。

フィランソロピーは金額の多寡で定義されているわけではない。だから金額は小さくても
高貴な目的のために寄与するのなら、フィランソロピーと呼ばれてよいはずだ。たとえば
それを必要としているひとたちに寄付された本を分配する書物1千冊運動がそれに当たる
し、また別の例もある。

文学者アイップ・ロシディ氏の自伝が出版されようとしている。およそ1千4百ページに
上るその書物は、出版社によれば、価格を手の届くものにするために別のソースでコスト
を埋めなければならない。その著者の70回目の誕生日に当たる2008年1月31日に
出版される書物は、友人のひとりが提案したところに従って11月から、選ばれた特別の
購入予定者に対し、厚手の豪華本・限定番号付き・購入者の名前入り・著者の自筆サイン
付きという形のものが特別価格でオファーされている。

インドネシア文化と文芸へのアイップ・ロシディ氏の貢献は疑問の余地のないものだ。卒
業証書のない人生Hidup Tanpa Ijazahと題するその書物が読者を人類への愛に向けて誘う
ことを期待してやまない。