「ムルタトゥリ博物館(1)」(2020年02月26日)

マックス・ハフェラアルMax Havelaarの著者ムルタトゥリMultatuliがエドゥアール・ダ
ウス・デッカー(現代オランダ語発音、インドネシア語発音はエドゥアール・ドウス・デ
ックル)Eduard Douwes Dekkerの筆名であることはよく知られている。かれがバンテン州
ルバッLebak県の首府ランカスビトゥンRangkasbitungで、副レシデンとして暮らしたこと
もよく知られている。かれはバンテンを統括するオランダ人レシデンの下で、ルバッ県を
統治するプリブミのブパティを監督する副レシデンの地位にあった。

2018年10月25日のコンパス紙に掲載されたデッカーの年譜は次のようになってい
る。

1820年3月2日 オランダのアムステルダムで誕生
1839年1月4日 東インドのバタヴィアにはじめて上陸
1839年1月15日 バタヴィアではじめて事務員の職を得る
1842年7月9日 北スマトラのナタルの監視官に任ぜらる
1843年7月   財務管理問題で監視官を免ぜられる。西スマトラ州パダンフルのレ
シデンの預かりとなる

1844年1月   東インド植民地政庁職員として停職。財務管理上のミスで9カ月間
給与停止。パダンから離れることを禁止される
1846年4月10日 西ジャワのチアンジュルでエフェルディネ・ユベルツ・バロネス・
ファン・ヴェンベルセンEverdine Huberte Baronesse van Wijnbergen愛称ティネと結婚
1848年10月  北スラウェシのマナドにレシデン秘書官として赴任
1848年10月5日 マルクのアンボンの副レシデンに登用される
1852年9月   病気療養のために妻を伴ってオランダに帰国

1855年     バタヴィアに戻る
1856年1月4日 バンテンのルバッの副レシデンに任じられる
1856年1月22日 ルバッの地方行政首長を集めて演説
1856年2月29日 ダイマル・ファン・トゥイストDuymaer van Twist総督宛に公式
報告書を提出。内容はルバッ県令のラデン・アディパティ・カルタ・ナタナガラとその婿
であるパランクジャンのドゥマン、ラデン・ウィラナタクスマのルバッ領民に対する圧制
と腐敗行為
1856年3月28日 ルバッ副レシデンの職を解き東ジャワのガウィへの転任を命じる
辞令が出される

1856年3月29日 植民地政庁への辞職願を提出
1856年4月4日 辞職願が承認される
1857年4月3日 ヨーロッパに向けて東インドを去る
1859年9月17日 ベルギーのブリュッセルでマックス・ハフェラアルの執筆に着手
1859年11月3日 およそ3百枚の手書き原稿が完成

1860年5月17日 アムステルダムのJデロイテルがマックス・ハフェラアルの初版
を出版。1千3百部を完売
1868年2月   マックス・ハフェラアルの英語版が出版される
1887年2月19日 ドイツのニーダーインゲルハイムで死去
[ 続く ]