「ムルタトゥリ博物館(2)」(2020年02月27日)

1856年1月21日にランカスビトゥンに赴任したデッカーは、ルバッのブパティが権
勢をかさにきて法規に違反し、民衆を搾取・収奪している事実を目の当たりにする。「娘
が母親の家から連れ去られ、水牛が牛舎から盗まれ、土地は乗っ取られ、果樹の持ち主は
実った果実を取り上げられる。そして貧困者の身体を覆うべきものを圧政者は略奪して身
に着け、また貧困者が食べるべきものを奪い取って食べるのだ。」そんなことを地場の権
力者は行っていたのだとデッカーは述べている。

圧制に満ちた民衆統治は許すべからざるものだという正義感と民衆の困窮と苦難に同情し
て、上司であるバンテンのレシデンに強い抗議の報告書を提出すると、レシデンは調査を
行ったものの、結局ブパティの肩を持ってデッカーを懐柔しようとしたことから、デッカ
ーはバタヴィアの総督に宛てて直訴の手紙を送り、そしてすべてが裏目に出た。

総督府はデッカーに転勤を命じる反応を示したのである。1856年4月4日にデッカー
を別の土地に赴任させるための転勤辞令が出されたのだ。赴任してきてからわずか二カ月
半のできごとだった。失意のかれは植民地行政に愛想をつかし、政庁中堅幹部の職を投げ
捨ててヨーロッパに戻ってしまう。そしてかれはランカスビトゥンに二度と戻って来なか
った。

かれはその憤懣やるかたない思いに駆られて、ランカスビトゥンの体験談を「マックス・
ハフェラアル〜もしくはオランダ商事会社のコーヒー競売」と題する小説の中に書き込ん
だ。1860年に出版されたこの植民地行政に対する告発の書はヨーロッパ中に植民地主
義への批判を巻き起こし、リベラリズムに向かう素地が形成されて行くようになる。その
意味から、この書が世界態勢の変化に果たした役割はきわめて大きいと言えるだろう。
マックス・ハフェラアルのエピソードは拙作「マックス・ハフェラール」、
http://indojoho.ciao.jp/archives/library012.html
をご参照ください。


ランカスビトゥン住民の間でムルタトゥリの名前はつとに知られている。その名前はかれ
らの郷土史の中にどっしりと腰を落ち着けているようだ。2018年2月11日、ランカ
スビトゥンの町の中心をなすルバッ県庁前のアルナルンAlun-alun(広場)を囲む道路に
面したウェダナWedana(郡長)公邸がムルタトゥリ博物館として公開された。

1920年に建てられたコロニアル様式のウェダナ公邸には、ルバッの民衆がたどった反
植民地運動の歴史が展示されている。ムルタトゥリはそのシンボルなのだ。そこはランカ
スビトゥン市東アルナルン通り8番地を住所としている。

都内からムルタトゥリ博物館へ行くなら、タナアバン駅からコミュータ電車でおよそ2時
間かけてランカスビトゥン駅に行き、駅前からアンコッでアルナルンへ向かう。

博物館の表にはムルタトゥリ博物館という大きい表示が目に映る。来訪客はデッカーの顔
のモザイクと「人間の義務は人間になることである」というモットーに迎えられる。

総面積1,843平米のこの博物館では、展示品がいくつかの時代に応じたセクションに
分けられ、ルバッの歴史を物語っている。
第一のセクションでは、オランダ人のインドネシア征服史が短編映画で上映される。ナツ
メグ・コショウ・クローブ・シナモンなどのスパイスがオランダ人を南洋の地に導いたの
だ。更に19世紀には悪名高い強制栽培制度が実施され、コーヒーも商品作物としてジャ
ワ島の18地域に栽培が命じられた。ルバッはその中のひとつだった。その時代にインド
ネシアで作られたコーヒーの大部分はロブスタ種だったようだ。ルバッでもロブスタ種が
栽培された。[ 続く ]