「宗教に支配されない国インドネシア(2)」(2020年03月17日)

抽象的とはいえ、神とその教えへの確信が個人個人および共同体の暮らしにたいへん大き
い影響力を持っていることは反論の余地がない。たくさんの偉大なる文明が宗教への確信
と運動から生まれた。美しいデザインの巨大モニュメントの数々も宗教的衝動と信仰が生
んだものだ。ボロブドゥル寺院、ヨーロッパの古い教会、中東のモスク、そのすべては神
に捧げられたもの、もっと的確に言うなら神を崇拝する場所としての高い建築学的価値を
持っている。

しかしその一方で、数えきれないほどの戦争や暴力行為が宗教を動機として発生している。
それは各宗教がそれぞれ、神が約束した救済、特に来世での救済への道を持っていること
への確信の存在に端を発している。この救済のコンセプトと確信が自己の信じる宗教の外
に救済の道はないという価値観へと発展した。つまり別の宗教を信じる者は異教徒であり、
すべてが地獄の亡者の予備軍なのだという考え方だ。異教徒に対する姿勢は三つある。一
つは、かれらを同じ宗教を信仰する朋輩になるよう、丁重に誘う。もう一つは、かれらを
好きにさせ、かれらが選択した信仰を尊重し、同じ人間として仲良くやって行く。三つ目
は、異教徒なのだから自分たちが崇拝する神に反対する者なのであり、敵の立場にあるの
だから戦うまでのこと。

宗教を動機にする衝突や戦争は常に矛盾する論理をはらんでいる。平和や救済を威嚇や暴
力でオファーするのである。愛に満ちた神のミッションであると叫びながら相手を抑えつ
けて殺す。残虐な殺害行為を行いつつ、それを聖なる行為と見なす。新しいアプローチと
ものの見方が生まれなければ、宗教の理解と確信の差異が常に暴力や衝突を煽るだろう。

宗教コミュニティとそのドクトリンの外で神を見出そうとするグループが出現するのは、
驚くに当たらないのだ。それは宗教と無関係な神とスピリチュアリズムなのである。宗教
が平和と文明のためのパワーにならないのなら、いったい何のための宗教信仰なのか?

< 文化産物とイデオロギー >
宗教コミュニティを信じてその一員になるのは、国民や市民になることと性質や含みがま
ったく異なっている。国籍や市民であることは住民証明書やパスポートで証明されるので、
住む場所は法律や地域に縛られる。宗教コミュニティは宗教法を国法より上位と見なし、
住む場所は境界線を持たない。かれらは現実にこの地上に生まれ、成長し、住んでいるに
も関わらず、自分を天空の王国の一員と感じている。かれらの中には天空の王国を地上に
打ち建てようとの観念を抱く者が出現するが、地上の破壊を引き起こす方向に向かうこと
もある。

宗教の使命は地上に平和と繁栄を打ち立てることだという見解を持つ者もいる。来世での
救済は現世におけるヒューマニズムプロジェクト建設の功績とその再生産がもたらすもの
である。それゆえ、一個人の選択と宗教実践は選択とモラル闘争の形を取る。ひとつのモ
ラル行為にはふたつの条件が不可欠だ。個人の宗教性は威嚇や抑圧の産物でなく、自由な
選択に基づかなければならないことがひとつ。もうひとつは、モラルの出現は同じ人間同
士というコンテキストの中でなされること。その人間のモラルが優れているということは
同じ人間同士の間に良い関係を築くことを意味している。その文脈において、篤信性の評
価と試練は常に他者に対する善行に関連付けられていることから、イスラム教義はたいへ
ん平明で明確なものなのである。それゆえに、威嚇を用いて宗教を広めることはイスラム
教義の原理を打ち壊すことになる。強制された状態から高潔さや誠実さは出現しない。
[ 続く ]