「東インド植民地警察(6)」(2020年03月17日)

20世紀初めごろの時代のものを調べたが、見つけることができなかった。ともあれ、日
本軍が東インドに襲来したころの植民地警察の核構造と現代のオランダ本国のものはよく
似ているように思われるから、基本線での大きな変化はなかったのかもしれない。言うま
でもなく、植民地警察にはそれなりの特殊事情があって種々の要素が付加されているわけ
で、まったく同じになるはずがないのは明らかだ。


植民地警察は実態として治安維持と社会に安全感をもたらす機能を超えて、政治やモラル
の領域をも管掌した。1937年チャルダ・ファン・スターケンボーフ・スタハウアー
A.W.L. Tjarda van Starkenborgh Stachouwer第64代総督は政庁上層部にホモセックス
が蔓延し、罪悪が行政機構内を覆っているとの話に関連して、宗教倫理上のこの罪悪撲滅
に乗り出した。

1938年12月27日マルセラMarcella最高検察庁長官は警察の提出した捜査報告書を
基にしてデラ・パッラTM de la Parra副長官に対し、タスクフォースを編成して神に背く
悪人どもをひとり残らず逮捕するよう命じた。サバンからメラウケまで、学校教員から政
府高官に至るまで、個人生活を暴き立てることが開始され、警察は223人を逮捕した。
その大半はヨーロッパ人であり、かれらは流刑された。

この一大捜査網には法的な裏付けがなかった。法的裏付けは未成年者との性行為に対して
しか有効でないのだ。で、どうしたか。未成年の使用人を尋問し、あるいは男色売春少年
たちに質問をかけた。売春少年が「このトアンを知っているか?」という質問に「サヤ」
と答えたなら、その人物の命運はいかんともしがたいものになってしまったのである。2
23人の中にそのような人物が何人含まれていたのか、熱心な宗教信徒たちが背かれたと
信じている神のみぞ知るであろう。


警察が大手を振って個人のプライバシーの中に捜査の網を持ち込むそんな状況は、192
6年共産主義者反乱の捜査で既に普通のものになっていた。いや、もっと前から独立運動
活動家の身辺には常に警察が目を光られていたのである。

中でもスカルノは諜報部門の目の敵にされ、密偵がかれの動きを付け回し、あらゆること
が報告された。あるとき活動家たちが娼家に集まって秘密会合を行った時も、だれだれが
そこに集まったのかということを政庁側は知っていた。後日、スカルノが政庁側に呼び出
されて取調べを受けた時に、おまえはいついつ娼家に行っただろう、という質問が出た。
スカルノはしゃあしゃあと「いったい何のつもりでそんなことを調べているんだ?わたし
の妻に告げ口するつもりか?」と反論したそうだ。

植民地政庁の民族主義と独立運動に対する考えはきわめて時代錯誤的なものだったと多く
の歴史家が評している。その種の運動は騒擾・反乱といった武力蜂起を結末とする反政府
運動であるため、関係者の行動を監視すると共にその自由を制限して極力動ける幅を狭め、
最悪政府側との武力衝突が起こっても規模が大きくならないようにし、不審不穏な状況が
起これば中心的関係者をどしどし逮捕拘留し、それでも衝突が発生してしまえば警察で対
処できるように警察の武装を強力なものにするといったコンセプトで事に当たっていた。
つまり民族主義と独立運動は治安を乱す要因であるため警察問題だと考えていたのである。
[ 続く ]