「86、ラパンアナム(終)」(2020年04月13日)

刑務所に過剰な数の犯罪者がぎゅうぎゅう詰めになっているにもかかわらず、巷には犯罪
が増えこそすれ、減る気配は皆無。犯罪者更生などという話は夢物語であり、前科者は必
ず昔通ったマイウエイに舞い戻って来る。まったく無駄で無意味な社会制度の不能率の根
をオレが断ってやる、というヒロイズムが現場刑事たちになかったはずもないだろう。ワ
ルどもは皆殺しだというハードボイルドが実践されていた可能性を庶民は心中の喝采と共
に感じ取っていたのかもしれない。

もうひとつ認められているのが、自己防衛のための射殺。逃げるのでなく、反対に逮捕さ
れまいとして攻撃してくる犯罪者に発砲する。これも、戦闘能力を失わせる程度に発砲す
るべしとなっているのだが、結果は生存能力を失わせるレベルに行ってしまう。

同情的に見るなら、自分を殺しにかかっている相手に対して、その戦闘能力を奪う程度に
あしらってやれるほどの力を持つ警官刑事がどれだけいるのか、ということになるのでは
ないだろうか。必死になって自分を殺しに来ている相手に直面して、自分にそんな余裕が
あるのだろうか、ということを自問してみればよい。しかし究極的には、そんなことに耳
を傾ける現代ヒューマニストがどれほどいるのかという話にたどりつくのではあるまいか。
教条的ヒューマニストはロバの耳すら持っていないようだから。

結局は逃走犯罪者射殺と同様に、能力を失わせようとして発砲したのだが弾丸の当たり所
が悪かったために死亡したのであり、射殺者である治安要員の側に殺意はなかったのだと
いうことで幕切れになる。


インドネシアの犯罪者はまず例外なく徒党を組み、群れる。暴力を身の回りに漂わせてい
る犯罪者はみんなグループで仕事する。文化がいかに人間の行動に影響を及ぼすかという
点を見るなら、犯罪行為とてその定理から無縁ではいられない。しょせんは人間が行う行
為行動なのだから。

もちろん暴力というのは力仕事だから、ゴトンロヨンが威力を発揮するのは言うまでもな
い。5人の戦闘集団よりは15人の戦闘集団の方が力(つまり暴力)は大きいのだから、
勝つ可能性は高い。これは明白な合理主義であろう。

強盗グループのメンバーが逮捕されると、警察はグループを根絶やしにするために全構成
員の身元を割り出す。逮捕されたメンバーはたいてい、いとも容易に口を割る。それが民
族性なのか、それとも警察の口を割らせる技能が優れて巧みなのか、わたしは知らない。

そして逮捕された強盗団メンバーは自分の知っている仲間の居場所に捜査班を案内する。
そのメンバーにとって、警察署の外に出ることが逃走の希望をもたらす唯一の道になるこ
とは疑う余地があるまい。嘘か本当か分からないが、仲間の居場所だと言って数カ所捜査
班を引きずり回せば、捜査員もくたびれてくる。一日中神経をピリピリさせることのでき
る忍耐力を持つ人間は少ない。頃合いを見図り、強盗団メンバーは隙を見て逃げようとす
る。あるいは捜査員のひとりふたりを血祭りにあげてから逃走を企てる。こうして発砲⇒
射殺が起こるのである。

この種の事件の中に、警察側が罠をしかけて強盗団メンバーに対する発砲⇒射殺という結
末に向かわせるケースが含まれているという説がときどき出現するのだが、当事者でない
人間にとってそれはもう完璧なる藪の中としか言いようがないのではあるまいか。[ 完 ]