「ヴェルテフレーデン(5)」(2020年04月20日)

ファン・イムホフGustaaf Willem baron van Imhoff第27代総督がバタヴィア城市内を
嫌って今のボゴールである南方の高原部に別荘を作ったのは1750年のことだった。そ
れ以来イギリス占領時代のラフルズ総督を含めて39人の総督がバイテンゾルフ宮殿を居
所兼執務所にした。ダンデルス総督とて、その中のひとりだったのである。

とはいえ、毎週水曜日に開かれる東インド参議会Raad van Indie/Dewan Hindiaの会議の
ために週一度はバタヴィアに出て来なければならなかったことから、歴代総督はバタヴィ
アにも宿舎兼執務所を持った。ダンデルスはバタヴィアにいるとき、グヌンサハリ通り2
2番地の邸宅に滞在した。そこはアルティンWillem Arnold Alting第31代総督の住居だ
ったところで、ヨハネス・ラッハJohannes Rachのスケッチ画にも残されており、豪壮な
大邸宅だったようだ。ラッハのスケッチ画には weeg Goenong Saari, 3 Paale van 
Batviaと記されていて、3パールはちょうどヴェルテフレーデンの位置に当たり、現在の
グヌンサハリ通り22番地とはまるで位置が違っている。

植民地政庁は総督のバタヴィア宿舎としてレイスウェイク宮殿Paleis te Rijswijkを用意
した。ただし一般には宮殿という名称を避けて、ホテルと呼ばれていた。この邸宅は元々
実業家ファン・ブラアムJacob Andries van Braamが自分の居所として1796年から建
て始めて1804年に完成したもので、かれは1810年から19年まで植民地政庁の高
官職に就いている。1820年になってかれが没すると政庁がその邸宅を総督宿舎として
借り受け、翌年には買い取ってしまった。

ヴィッテハウスの竣工はまだまだ先であり、総督たちはレイスウェイクホテルを利用した
が、いざヴィッテハウスが完成した後もバイテンゾルフ暮らしとレイスウェイクホテルへ
の愛顧を断ち切ることをしなかった。完全なダンデルスの誤算だったにちがいあるまい。
このレイスウェイクホテルは現在の国家宮殿Istana Negaraであり、北側のヴェテラン通
り側が正門になっている。モナス広場側に面している今の大統領宮殿(独立宮殿Istana 
Merdeka)は1873年に建設が開始された。ジェイムス・ラウドンJames Loudon第57
代総督が総督執務所の拡張を命じたことから、その形で対応がとられ、1879年に完成
した。完成後、この建物はコニングスプレイン宮殿Paleis te Koningspleinと名付けられ
た。


ヴィッテハウスの表には広さ5.4Haの儀典プラザが作られた。今のバンテン広場だ。
国政最高機関で同時に国家シンボルでもあるヴィッテハウスの表広場では、国家的祝祭や
式典行事が行われた。軍隊のパレードが伴われるのが普通だったから、パレード場
Paradeplaatsという名称で呼ばれていたようだ。もちろん植民地時代の名称としてPara-
deplaatsというのはバンテン広場を指す固有名詞になっていた。

この中央国家儀典プラザに別の名称が与えられたのは1828年のことだった。オランダ
王家を保護したイギリスの侵略からジャワを守るためにフランス皇帝ナポレオン一世の懐
刀として乗り込んできたダンデルス総督は、ヴィッテハウスや儀典プラザのお膳立てをし
てから1811年にヨーロッパに戻って行ったが、かれが旗振りを務めたナポレオンは1
815年6月18日にベルギーのワーテルローで行われたイギリス・オランダを主力とす
る連合軍との戦いに敗れ、ついに没落してしまうことになる。こうしてヴィッテハウス正
面プラザはオランダ王家にとってのワーテルロー戦勝記念広場にされた。プラザの真ん中
にワーテルロー戦勝記念碑が建てられて、この広場はヴァーテルロー広場Waterlooplein
と呼ばれるようになった。プラザやパレード場よりは、はるかに親しみの持てる名称と言
えるだろう。

ナポレオンの旗振りダンデルスが作ったプラザがナポレオン敗戦(と没落)を記念する広
場にされたのだから、ダンデルスにとってこれほど皮肉なこともあるまい。それ以来この
広場をオランダ人はヴァーテルロー広場と最後まで呼び続けた。[ 続く ]