「ヴェルテフレーデン(6)」(2020年04月21日)

ヴァーテルロー広場は国家中央プラザであり、バタヴィアに作られたさまざまな広場より
も高いステータスを与えられたことは言うまでもない。祝賀際のような国家的催事が行わ
れないとき、特に休日の夕方などはバタヴィアのエリート層が馬車でこの広場に集まって
来て、軍楽隊の奏でる音楽を聴きながら社交活動にいそしむのが通例だった。社会がまだ
まだアダルトによって動かされていた時代だ。

時代が下って20世紀に入ると、エリート層の社交にとって代わってヤング層が自転車で
集まって来るようになる。スポーツを好む若者たちはヴァーテルロー広場の片隅で蹴球や
籠球を遊ぶようになり、特に青年女子は籠球を楽しんだ。自転車で集まって来る若者たち
は、全員がスポーツをしに来ていたのではなかった。籠球を楽しんでいる運動着を着た娘
たちを眺めるために集まってきていた者も少なくなかったという話だ。


1828年にヴァーテルロー広場に建てられた戦勝記念碑はたいへん高い一本の塔の頂上
にライオンの像が置かれたものだった。プリブミ大衆はそのためにこのヴァーテルロー広
場をライオン広場Lapangan Singaと呼んだ。そのライオンの塔は日本軍政期に破壊されて
姿を消したが、インドネシア共和国独立宣言後かなり経った1950年代まで、民衆はラ
イオン広場の呼称を使い続けた。

オランダ植民地主義がジャカルタに残した遺産を激しく嫌ったスカルノ大統領は、ライオ
ン広場という呼称を民衆に続けさせないようにするため、そこを野牛広場Lapangan 
Bantengと呼ばせた。民衆の心を揺さぶるスカルノの演説の中に、"Kita adalah bangsa 
banteng, bukan bangsa tempe." の一節は頻繁に登場した。

古い写真を見ても判るように、ライオンの塔は塔そのものが大きかったためにライオンの
像が小さく見える結果を招き、オランダ人の間では決して評判の良いものでなかった。
「ありゃあライオンじゃなくてエダムチーズに乗っているプードルだ。」というジョーク
が人口に膾炙したそうだ。

一方、ヴァーテルロー広場に面したヴィッテハウスの表玄関のすぐ前に、バタヴィアの開
祖ヤン・ピーテルスゾーン・クーンJP Coen第4代総督の銅像が建てられた。建てられた
時期に関するインドネシア語情報はふたつあって、ひとつはアルウィ・シャハブ氏の書い
ているクーンのジャヤカルタ征服250周年を期した1869年5月30日。もうひとつ
の説はバタヴィア市Stad Batavia創設200年を記念して1876年に建てられたという
ものだが、バタヴィア市の発足は1621年3月4日であるため、この説は算数が合わな
い。オランダ語情報でもクーン像の建立時期を見つけることができなかった。

自ら力をふり絞って手に入れたこのバタヴィアの土地を指さし、「ネバーギブアップ」を
唱えるクーンの像は、これまでの情報では日本軍が破壊したということになっていたのだ
が、昨今手に入るインドネシア語情報の中には、日本軍が破壊したのはライオンの塔で、
クーンの銅像はスカルノ大統領が破壊を命じたと説明されているものが増えている。一方、
オランダ語情報では日本軍が破壊者というものばかり見つかった。

オランダの遺産をすべからく嫌悪して、オランダ人が建てた記念碑を破壊し、バタヴィア
をはじめとして多数のオランダ語地名まで抹殺した日本軍政が、いったいどうしてクーン
の銅像だけを遺しておいたのか、まったく不可解な問題が出現してきたことになる。
[ 続く ]