「ヴェルテフレーデン(9)」(2020年04月24日)

だがいずれにせよ、そんなものでその当時世界最高レベルのイギリス軍を正面から受けて
立つことなど不可能だ。フランス革命に心酔して革命軍に加わり、連戦錬磨の指揮官を努
めて来たダンデルスには、それが分かりすぎるほど分かっていた。フランスの精鋭軍がそ
こにどうしても加わらなければならないのである。かれはナポレオンに軍勢派遣を要請し
た。

ジャワ島を取り囲んで封鎖しているイギリス軍船の網の目をかいくぐってフランス軍第1
2歩兵大隊がモーリシャスMauritiusから到着したとき、その兵員を収容するためにヴィ
ッテハウス北側と南側のブロックがすべて使われた。こうしてヴィッテハウスとパレード
場の線から南側は、ダンデルスが編成した東インド防衛軍で埋め尽くされることになる。
ダンデルスはその場所で2万人の軍勢を収容することを予定していた。


冒頭に書いた新バタヴィアのもうひとつの大型広場、現在のモナス広場は、ダンデルスが
構築した軍隊の演習場として使うようにかれが計画したものだったのである。元々そこに
は、オランダ人がブッフェルスフェルドBuffelsveld(英語の意味はbuffalo/bison field)
と呼んでいただだっ広い草地があった。ダンデルスはそこを広げて整地し、東インド防衛
軍の演習訓練を行うための場所にしようと考えた。そのときダンデルスはその演習場をフ
ランス語でChamps de Marsと命名したそうだ。そうなると、ヴァーテルロー広場が最初パ
レード場とオランダ語で呼ばれていたのと同じ意味になり、単に言語を違えただけのもの
になる。

もうひとつ奇妙なのは、モナス広場の一番最初の名称がインドネシア語にするとバンテン
広場になることであり、スカルノがバンテン広場の名称をヴァーテルロー広場に献じたこ
とが何やら因縁めいてくる。スカルノがこの錯綜を意識していたのかどうかは想像がつか
ない。

この演習場にカギカズラの木がたくさん生えていたことから、プリブミはこの場所をガン
ビル広場Lapangan Gambirと呼んだ。現在のガンビル鉄道駅がある一帯だけでなく、モナ
ス広場全体がガンビル広場と呼ばれていたということだ。ガンビル広場で軍隊の演習訓練
が行われなくなると、この広場には住民の憩いのための公園や政府機関が置かれて、だだ
っ広かった広場が変貌して行くようになる。


1808年11月、ダンデルスの軍勢はヨーロッパ人3千7百人、プリブミ11,520
人だった。1811年4月にはバリ人とマカッサル人の奴隷から成るプリブミ精鋭部隊が
1,774人に達した。奴隷は8年間の軍隊勤務を果たし終えると、奴隷身分から解放さ
れた。

ナポレオンに呼び戻されたダンデルスは1811年5月にジャワを去り、12月にパリに
戻るとナポレオン軍第26師団司令官に任じられてベレジナBerezinaに出撃する。ジャワ
島におけるダンデルスの後任はヤン・ヴィレム・ヤンセンスJan Willem Janssens第38
代総督が任じられて、イギリス軍の攻撃を受けて立つ態勢に入った。1811年8月、つ
いにイギリス東インド会社のジャワ島進攻軍がチリンチンCilincing海岸に上陸を開始し、
バタヴィア攻防戦の火ぶたが切って落とされる。

ラフルズのジャワ島侵攻と呼ばれるこのときの戦争に投入された兵力は、イギリス側1万
2千人、オランダ・フランス側が1万7千人だったとされているので、ヴェルテフレーデ
ンに入っていたダンデルスの軍勢は2万人に達していなかったのだろう。おまけにメステ
ルコルネリスにも分散させたのだから、ヴェルテフレーデン住民の数はもっと少なかった
のではないだろうか?[ 続く ]