「ヴェルテフレーデン(8)」(2020年04月23日)

VOCは最初ポルトガルの植民地を征服し、ポルトガル人が地元の女との間に作ったメス
ティ−ソと呼ばれる混血者を奴隷にしてバタヴィアに連れて来た。メスティ−ソはたいて
いがポルトガル系の姓を持ち、カソリック教徒だったから、同種宗教・同種文化の人間と
して扱いやすかったのかもしれない。だがそのうちに華人の勤勉さと聡明さが頭抜けてい
ることを発見して、VOCはメスティ−ソを連れて来ることをやめ、プチナンPecinanに
住む華人をバタヴィア建設のパートナーにするようになる。

既に連れて来られたメスティ−ソはそのうちに奴隷身分から解放され、自由人としてVO
Cの兵士になっていった。加えて、バタヴィア建設と運営の下働きとして連れて来られた
バリ・ムラユ・スラウェシなどのプリブミも、奴隷あるいは自由人としてVOCの兵士に
なる者がいた。およそ190年の間にVOCがバタヴィアに連れて来たプリブミは40種
族12.8万人に達した。VOCが消滅するまでの間、ヨーロッパ人の数はだいたい2千
人超程度に保たれていたようだから、プリブミの数がどんどん増加して行くためにヨーロ
ッパ人の比率は縮小して行ったことになる。プリブミの中でも奴隷人口が常に最大多数に
なっていた。


18世紀には、解放奴隷の部隊がVOC軍事力のメインを占めたようだ。1777年には
6個中隊およそ1千2百人がバタヴィア防衛軍を構成していたが、1803年に1個中隊
に減らされ、1808年には完全消滅した。

VOC軍のそのような時代遅れの体制をモダン化させるための動きは、1790年に具体
的な形を取った。ドイツからヴューテンバーグ連隊Regiment Wurttembergと呼ばれるドイ
ツ人の軍隊が雇用されて原住民部隊を肩代わりしたのである。兵員数は2千人だった。V
OCが消滅すると、蘭領東インド植民地政庁が契約を引き継ぎ、ドイツ人部隊は1808
年まで東インドの軍務を担った。ダンデルスが東インド自前の軍隊を編成したとき、ヴュ
ーテンバーグ連隊のドイツ人が多数参加してプリブミ部隊の指揮官になった。かれらの多
くが土着したことで、ドイツ系の姓を持つインドネシア人を大勢今に残している。


ダンデルスはそんな状態のジャワ島防衛軍事力に直面しなければならなかったわけだ。ダ
ンデルスはまず、かれがもくろんだ8千から1万の兵力を持つ地元東インド軍の構築に取
り掛かる。プリブミ兵士のリクルートが進められ、プリブミ兵部隊を指揮するヨーロッパ
人中級将校の雇用も同時進行した。ヴューテンバーグ連隊のドイツ人がその役を担ったが、
まだまだ足りない人数はヨーロッパの軍人を呼び集めることで満たさざるを得なかった。

しかしナポレオンが派遣した将校たちの多くはイギリス軍船の海上封鎖に引っかかって捕
らえられ、ジャワにたどり着くことができなかった。おかげで中部ジャワ王家の息子たち
の中にダンデルスの軍勢に加わって将校になった者もいる。パゲラン・アディパティ・ソ
チョ・アディニンラPangeran Adipati Sotjo Adiningratは大佐に、ラデン・トゥムング
ン・マンクディニンラRaden Tumenggung Mangkudiningratは中佐に叙されて従軍した。

ダンデルスのプリブミ兵士リクルートはマドゥラ・マカッサル・バリ・アンボンなどの種
族を主対象にして、ジャワ人は対象から外したそうだ。プリブミ兵部隊にもヨーロッパ式
の階級を与えて兵と下士官にし、兵員は武器・軍服・階級・食糧・訓練・賃金を与えられ
た。2年間でダンデルスのプリブミ軍勢は2万人に達し、機動師団・バタヴィア師団・ス
マラン師団・スラバヤ師団・外島防衛師団の5師団に分けられて各地に配備されたという
話になっている。[ 続く ]