「ヴェルテフレーデン(13)」(2020年04月30日)

一方、ヴェルテフレーデンの地区の北端部にあたる、ヴィッテハウスとパレード場の北側
のブロックは最初、フランス軍第12歩兵大隊の営舎が設けられて兵員や指揮官が収容さ
れた。その後は東インド植民地軍の首脳や高級将校たちの官舎になっていた。

このブロックはブディウトモBudi Utomo通りが東側半分をヴィッテハウスのブロックから
区分し、西半分は北バンテン広場Lapangan Banteng Utara通りでバンテン広場と分けられ
ている。更にその東西部分はグドゥンクスニアンGedung Kesenian通りが分断している形
だ。植民地時代、ブディウトモ通りはVrijmetselaarweg、バンテン広場北通りはWaterloo-
plein Noord、グドゥンクスニアン通りはKomediebuurtという名称だった。

その東側ブロックの中央部に古い建物がある。1889年に建てられたこの建物は191
1年7月3日にPHS商業高校Hogere Burgerschool (HBS) Prins Hendrik Schoolとして
開校した。モハンマッ・ハッタMohammad Hatta初代副大統領はこの学校で学んでいる。

その校舎が共和国独立後の1946年3月にインドネシア政府の最初の学校として使われ
た。これがジャカルタ国立第1高等学校SMAN1である。ブディウトモ通り7番地に位
置していることから、SMA Budut/Boedoetの愛称で呼ばれることもある。

SMAブドゥッは元々病院だったらしい。建物の窓が大きく、建物内の廊下は細い鉄の柱
が屋根を支え、丸いすりガラスの電球が一列につり下がっていて、おまけに元の建物配置
は馬蹄形になっている。植民地時代に建てられた病院はたいていそれらの様式を取り入れ
ており、馬蹄形の建物の真ん中部分には庭園が作られて、自然な環境を病院内に作り出す
役割を果たしていた。

SMAブドゥッの右側、グヌンサハリ通り沿い運河寄りの土地は今、塀に囲まれた空き地
になっている。この場所には植民地時代に軍刑務所が設けられていた。刑務所建物は撤去
されて、今は空き地をさらすばかりだ。一方、左側にも古い時代の建物があって、現在は
ジャカルタ国立第1職業高校SMKN1になっている。この建物は植民地時代に軍関係の
オフィスだったそうだ。そのオフィスで病院に入れられる者、刑務所に入れられる者の手
続きが行われたのではないかと思われる。


ブディウトモ通りの植民地時代の名称フレイメッツラーヴェフはフリーメーソン通りを意
味している。フリーメーソンの名が付けられたのは、その通り西端の建物がフリーメーソ
ンのバタヴィア本部になっていたからだ。その建物は1858年に建てられた。その場所
にそのための建物が作られて道路の名前にまでその名称が使われたのは、植民地政庁がフ
リーメーソンを東インドで公然たる組織として認め、政府中央のお膝元に座すのを許した
ことを意味しているように思われる。

VOC時代から、オランダのフリーメーソン会員は社員として東インドにやってきていた。
言い換えるなら、VOCに雇用されて東インドにやってきていたひとびとの中にフリーメ
ーソン会員がいたということだ。1756年ごろには既にかなりの数に上っていたらしい。

1763年にヤコブス・コルネリス・マテウス・ラデルマッハーJacobus Cornelis 
Mattheus Radermacherが6人の同志会員と一緒にバタヴィアに組織を作り、会の名称をル
ショワジールLe Choisileとした。1778年に公認されたバタヴィア芸術科学ソサエテ
ィを興したのもこの人物だ。

ところが10年経たないうちにルショワジールは消滅した。VOC高官を筆頭にする文民
グループと軍人をメインにするミリタリーグループに分裂したからだ。ミリタリーセンス
を優先するグループはLa Fidele Sinceriteロッジを形成し、文民グループはLa Vertueuse
ロッジをそれぞれ別の場所に作った。VOC中枢部に近いという社会的ステータスをかさ
に着て、文民グループがミリタリーグループを見下す傾向にあったことは疑いあるまい。
時には両ロッジ間の緊張があわやというレベルに達したこともあったようだ。[ 続く ]