「ヴェルテフレーデン(14)」(2020年05月04日)

一方は最初タンボラTambora地区にロッジを設け、その後バタヴィア城市内のユトレヒト
通りUtrechtstraat(今のJl Kopi)に移転させ、更に1773年になってテイヘルツフラ
フツTijgersgracht(今のJl Pos Kota)に移った。

もうひとつは1769年から1780年まで会員の家で持ち回りにされてからモーレンフ
リートヴェストMolenvliet West(今のJl Gajah Mada)にあるダニエル・クレイスマン
Daniel Kreysmanの屋敷が常設ロッジにされた。その後、両者の歩み寄りが進められる中
で1830年にフリーメーソン本部ができると、このグループはクレイスマンの屋敷から
さっそくそこにロッジを移動させている。


植民地政庁はフリーメーソンを公認団体と認め、両者の統一を促進させた。そのための本
部館を用意するために、ブディウトモ通り西端の国有地を寄付している。1830年に最
初のフリーメーソン本部館が建てられて文民グループはそこに移ったが、ミリタリーグル
ープが完全な一体化に応じるまでにまだ少し時間がかかった。1837年に両者の統一が
果たされて、87人のメンバーがDe Ster in het Oosten (The Star in the East)をスロ
ーガンにする蘭領東インドフリーメーソンの活動に邁進するようになる。

その館は1856年に建て替えられることが決まり、1858年に豪壮なインディッシュ
エンパイア様式のデザインに変更されて今日に至っている。20x27メーターの建物の
正面玄関に設けられた5本の柱で支えられているフロントポーチのひさしには、De Ster 
in het Oostenを示す五角星のロゴが大きく描かれていた。その柱も最初はドリア様式の
ものだったが、建て替えられたときに現在のものに変わっている。

蘭領東インドフリーメーソンは1860年前後から、高い知性を涵養するメンバー間の友
愛と連帯を目的としたそれまでの閉鎖的なベールをかなぐり捨てて、より社会的な価値を
追及する組織へと転身し始めた。1864年には本部館の中に図書館を開設して一般開放
したり、1865年には技術技能を男子に修得させるための学校をオープンし、1900
年にも女子を対象にする全寮制の学校を作っている。

この建物は1917年に製薬会社NV Chemicalien Handels-vreeniging J Van Gorkom & 
Co(別の説ではNV Chemicalien Handels Rathcamp & Co)の本社になっていたが、195
8年にインドネシア共和国政府がいくつかの製薬会社を合併させて国営のBhinneka Kimia 
Farmaに変身させた。社名が現在の国有会社PT Kimia Farmaに変わったのは1971年8
月である。かつてフリーメーソン本部館に描かれていた五角星のシンボルマークは現在、
キミアファルマ社のロゴ旭日matahari terbitに替わっている。


1925年、メンテン地区タマンスラパティTaman Surapatiに通りをはさんで対面してい
る場所にフリーメーソンの新ロッジVrijmetselaarsloge Adhuc Stadが建てられた。

メンテン地区がニュータウンとして開発が始められたのは1910年代のことで、タマン
スラパティは作られたとき、初代バタヴィア市長を務めたビスホップG.J. Bisschopの名
前を記念してビスホップ市長広場Burgemeester Bisschoppleinと名付けられた。かれもフ
リーメーソン会員だったのであり、フリーメーソン新ロッジがその場所に建てられたこと
に、それは関係があったのかもしれない。

1966年にG30S事件に関連して特別軍事法廷がこの建物で開かれ、政界要人たちが
そのクーデター事件に関わったかどうかの裁判が行われた。その後1967年に国家開発
企画庁Bappenasがこの建物で業務を開始して今日に至っている。

ヴィッテハウスのすぐそばの本部館にせよ、メンテン地区という新開エリート住宅地の中
央に設けられた新ロッジにせよ、フリーメーソンに対する東インド政界の姿勢がどのよう
なものであったのかということを、それらの事象が赤裸々に物語っているようにわたしに
は思われる。[ 続く ]