「ヴェルテフレーデン(17)」(2020年05月08日)

サンタウルスラSanta Ursula学園がフィラテリ館の西側でブロックの南北一杯に広がって
いる。オランダのウルスリンUrsulinesがバタヴィアに進出したのは1857年以来のこ
とだ。かれらは最初、ノードウェイクにシントマリー修道院Sint Mary Kloosterを設けて
活動を開始した。ところがそこが手狭になってきたため、1859年にヴェルテフレーデ
ンのその場所にも修道院を建てて活動を分散した。ヴェルテフレーデンでの活動はさらに
発展を続けて、小さかった修道院は拡張され、1891年にはチャペルが建てられている。

更に1912年に女子教育のためのユリアナ王女学校Prinses Juliana schoolが開校され
て公的学校教育へと向かった。現在サンタウルスラ学園はカソリック教系の教育機関とし
て幼稚園から高校まで女子生徒だけを対象にする一貫教育を行っている。全生徒数は5千
人に達するそうだ。


その隣、西側ブロックの西端にネオゴチック様式の荘厳な姿を佇立させているのが、19
01年に完成したカテドラル教会Gereja Katedralである。この建物を空から見ると、十
字架の形をしている。日本軍政期にこの建物は敵軍の空襲に対する防衛策として緑色に塗
り替えられた。戦後もその色のままで通し、1988年に大メンテナンス工事が行われた
ときに、白色に戻されている。

ルイ・ナポレオンがオランダ国王になったとき、それまでプロテスタントが有力だった東
インドにカソリックが入って来た。ローマ教皇庁から使徒座知牧Praefectura Apostolica
として派遣されてきたふたりのオランダ人がバタヴィアに駐在するようになる。

1808年4月にバタヴィア入りしたふたりは、ダンデルス政庁からパレード広場南西に
ある竹編み壁の居所を与えられた。後にヘルトフスパルクになる場所だ。しばらくはカソ
リック教徒の協力を得て、個人の邸宅で宗教行事を行っていたが、ふたりにとって教会の
必要性は切実な問題だった。ダンデルスがその必要を満たすためにガンクナガにある教会
を1810年2月、ふたりに提供した。ところが、1826年7月27日、ガンクナガ南
地区で火災が発生し、180軒の家屋と共にその教会も灰燼に帰したのである。

デュ・ビュス・ドゥ・ジジニー第43代総督は自らもカソリック教徒であり、カソリック
教会が各地に作られ始めて発展してきたにも関わらずバタヴィアに教会がないということ
を放置できず、ヴァーテルロー広場の北側ブロック西端の地所を新教会建設用地として2
万フルデンで売却することを決めた。そこはそれまで国防省建物があり、そして軍司令官
官舎もあった場所だ。


こうしてその場所に33x17メートルの教会が1829年11月6日にオープンし、De 
Kerk van Onze Lieve Vrouwe ten Hemelopnemingと命名された。英語ではThe Church of 
Our Lady of Assumptionという訳語になっている。ところが雨漏りが激しいために185
9年に改修工事が行われ、しばらくしてからまた改装工事が行われた。

最後の改装工事が終わった1880年から十年経った1890年4月9日午前10時45
分ごろ、思いもよらず教会の大部分が崩れ落ちたのである。再建工事は1891年から開
始され、費用不足のために頻繁に中断されながらも十年の歳月をかけた末に、1901年
4月21日に再建なったカテドラル教会が再びオープンした。[ 続く ]