「ヴェルテフレーデン(16)」(2020年05月06日)

西側ブロックの悪魔館に近い場所にはモダンな六角形のジャカルタ中央郵便局Gedung Pos 
Ibukota Jakartaがあり、その北側にエンパイア様式の豪壮なフロントポーチを持つ古い
建物がある。それがジャカルタ芸術館Gedung Kesenian Jakartaだ。この建物の歴史は次
のようなものだったらしい。

ダンデルスはこの場所にヴェルテフレーデン軍人シアターSchouwburg Weltevredenを作ら
せた。250人の観客が収容できるとはいえ、草ぶき屋根に竹編みの壁で作られたこの劇
場を関係者たちはバンブーシアターBamboe Theaterと呼んだ。ラフルズの時代に芝居好き
のイギリス兵たちはSchouwburg Municipel TheatreあるいはGedung Komidiと呼んでそこ
を愛用した。

1816年にイギリス軍が去ったあと、1817年4月21日にオランダ人がUt Desint 
vires tamien est laudanda voluntasをスローガンとする観劇愛好団体を作って資金を集
め、4年後の1821年に恒久的な劇場に姿を変えさせた。新装オープンはその年12月
7日に行われている。以来、劇場ではさまざまなプログラムが演じられた。オペラ、コメ
ディ、舞踊、歌謡、音楽演奏、更にはサーカスやマジックに至るまで。

1906年には全ヨーロッパに名を馳せたルイ・ボウミスタルLouis Bouwmeester率いる
劇団が訪れて芝居を上演したし、フォン・デ・ヴァルVon de Wall、 ヴィクトル・イド
Victor Ido、ヤン・ファブリシヤスJan Fabricius、ルイ・クペラスLouis Couperusなど
が率いる地元劇団も頻繁に舞台に上がった。

日本軍政期には軍政監部の宣伝部と啓民文化指導所が宣伝活動のためにプリブミの演劇活
動を奨励し、劇場の使用は頻繁に行われた。プリブミがオランダ語名称を使うのを嫌った
日本軍政は、Schouwburg WeltevredenをGedung Komidi Passer Baroeに、オランダ語toneel
に由来するインドネシア語tonilをsandiwaraに変更させた。

共和国独立後、インドネシア大学経済学部と法学部がしばらくこの建物を使い、その後は
シティシアターCity Thaterと名を変えて映画館にされた。舞台劇場として復活したころ
に、コメディ館Gedung Komidiという名前は芸術館Gedung Kesenianに変わったが、タマン
イスマイルマルズキTaman Ismail Marzukiができてからは、芸術館の使用頻度は大幅に減
少した。

この劇場は外見の大きな印象に反して中は狭く、中に入った人は意外な印象を抱くのが普
通だ。概して巨体のオランダ人たちが、役者にしろ観客にしろ、どのようにこの中に入っ
ていたのかを想像すると奇妙な思いを避けることができない。


ジャカルタ芸術館の西側には国有郵便会社PT Pos Indonesiaが所有するフィラテリ館Ge-
dung Filateli Jakartaがある。この建物は1913年に建てられて、植民地時代にはバ
タヴィア中央郵便局として使われた。一方、バタヴィア旧市街のファタヒラ公園Taman 
Fatahillahをはさんで旧市庁舎Stadhuisの対面にあるコタ郵便局Kantor Pos Kotaはもっ
とあとの1928年に建設されたものだ。

インドネシアの郵便の歴史は、VOC時代のファン・イムホフ第27代総督が1746年
にその口火を切った。まずバタヴィアに郵便局がオープンし、続いて4年後にスマランに
も郵便局が作られた。二都市間の郵便ルートはバタヴィア〜カラワン〜チルボン〜プカロ
ガン〜スマランという道程だった。ダンデルスが大郵便道路を開いたことで、配送日数は
大幅に短縮されたにちがいない。[ 続く ]