「コニングスプレイン(1)」(2020年05月12日)

ダンデルスHerman Willem Daendels第37代総督がヴェルテフレーデンWeltevredenを新
バタヴィアNiuwe Bataviaの中心地区に変えたとき、ヴァーテルロー広場Waterlooplein
(今のバンテン広場)とブッフェルスフェルドBuffelsveld(今のモナス広場)の間にあ
るチリウン川Kali Ciliwungの両岸地区はただの空き地でしかなかったようだ。

そこには1658年に設けられたノードウェイク要塞Fort Noordwijkがあり、駐屯兵が要
塞の近辺で野菜を植えている程度の利用のされ方でしかなかったが、1669年にはタバ
ーンがそこに一軒できていたらしい。さびれた辺境の地に暮らす守備隊の兵士たちを相手
にする商売がそこで営まれていたのだろう。世界中どこへ行こうが、その種の商魂はきっ
とユニバーサルなものだったのではあるまいか。

VOC将校のひとりが1723年にタバーンを買い取って自分のカントリーハウスにした。
バタヴィア城壁内からの脱出の動きがまさに始まらんとしていた時期に当たり、かれはき
っと時代を一歩先んじた先見の明を持つ人物だったにちがいあるまい。1743年になっ
てそのカントリーハウス建物は病院として使われるようになり、1820年まで病院は続
いていたようだ。

ダンデルスはノードウェイク要塞を無用のものとして撤去させた。すぐそばのヴェルテフ
レーデンには軍兵がひしめいており、おまけに敵であるイギリス軍は北方のジャワ海沿岸
部から攻め込んでくるのが確実なのだから、その時期にダンデルスが直面していた状況の
中では、バタヴィア南東方面の出城であるノードウェイク要塞の戦略的意義は皆無だった
と言って差し支えあるまい。おまけに大昔の軍略を踏まえた構造で建てられている要塞な
ど、現代戦のものの役に立とうはずがない。

ヴェルテフレーデンの中はダンデルスが隅から隅まで都市計画を作って建設が行われたも
のの、このすぐそばの空き地はそのまま放置されたようだ。そこはダンデルスの軍兵がブ
ッフェルスフェルドで演習を行う際に通過する進軍路でしかなかったのではないだろうか。


新バタヴィアがブッフェルスフェルドを囲みながら南へ南へと発展して行くと、大都市の
ど真ん中で軍隊が演習を行うことは忌避されるようになり、ブッフェルスフェルドはただ
の空き地と化してしまう。反対にヴァーテルロー広場のすぐ傍らの空き地が都心部の公園
としての機能を持たされることになった。

というのも、そこにはチリウン川が流れており、川の両岸には巨木がうっそうと茂ってい
て、暑熱がさえぎられて涼しく、川の水音までもが涼しさを運んできてくれるのだから、
その場所に手が加えられて整備される以前ですら、オランダ人たちがそこへピクニックや
野歩きに訪れていたのも当然の成り行きだった。そんな場所がすぐ隣にある以上、オラン
ダ人がブッフェルスフェルドを公園にしようなどと考えるはずもあるまい。

ファン・デン・ボシュJohannes van den Bosch第44代総督が建設を命じた公園は183
4年に完成し、ヴィルヘルミナ女王に敬意を表してヴィルヘルミナパルクWilhelmina Park
と名付けられた。プリブミはこの公園をウィジャヤクスマ公園Taman Wijaya Kusumaと呼ん
だ。総面積9.32Haのこの公園はオランダ人がバタヴィアに設けた最大の広さと現代
性を備えた公園だったそうで、その時代のアジアでも最新コンセプトで最大規模のものだ
ったと言われている。

巨大な樹木が立ち並び、チリウン川を渡る橋が整備され、あちこちの木陰にベンチが置か
れて、たくさんのバタヴィア市民が憩いを求めてこの公園にやってきた。オランダ人上流
層ばかりか、オランダ人や印欧混血の青年男女たちもやってきて、そこはかれらのデート
スポットになっていた。[ 続く ]