「コニングスプレイン(2)」(2020年05月13日)

プリブミもそこへやってくるのに障害はなかった。プリブミ上流層の青年たちもオランダ
青年たちのようにそこをデートスポットに使い、安らぎと憩いの中に浸っていた。休日に
はお弁当持参で、プリブミ中流層が一家そろって遊びに来る光景も見られたそうだ。

ニャイ・ダシマ殺害の計画を立てたバン・サミウンは官憲の捜査から逃れるためにこの公
園のうっそうたる森の中に隠れたという話だから、アジア最大と言われたこの公園の規模
がその話から推測できるだろう。

プルウィラPerwira通り南のプルタミナビルのあるあたりには噴水が設けられていたとい
う話もある。植民地時代はヴィレムスラーンWillemslaanという名称だったプルウィラ通り
は公園の中を通る道路だったのだろうか?


ファン・デン・ボシュ総督はこの公園の真ん中に要塞を設けた。1834年に作られた要
塞はプリンス・フレデリック・ヘンドリック要塞Citadel Prins Frederik Hendrikと名付
けられたが、プリブミは土館Gedung Tanahと呼んだ。そのわけは、要塞の下に地下道が作
られていておよそ12キロ離れたバタヴィア港(今のパサルイカンPasar Ikan地区)まで
つながっていると信じられていたからだ。

植民地時代を体験した古老の中にあたかも見て来たかのような話をするひとがいた。地下
道は頑丈なコンクリート造りで部屋がたくさん用意されていたという話をかれが語ってく
れるのだが、そのフレデリック・ヘンドリック要塞には常に警備兵がいて原住民も民間人
も立入り禁止になっていたから、見て来たような話しに眉唾の思いを抱く者がほとんどだ
ったのは疑いあるまい。

この要塞はイスティクラルモスクMasjd Istiqlal建設の際に取り壊されてしまい、たとえ
地下道があったとしても今では既に巨大なモスク建物の下に埋められているから、真偽の
ほどを調べるすべもない。

近辺の住民は毎日朝5時と夜20時に要塞で撃ち鳴らされる大砲の音を耳にしている。そ
れはヴェルテフレーデンにある全兵営の兵士に対して、30分後に行われる集合整列を知
らせるために鳴らされていたものであり、そのあとに信号ラッパの音が続いたようだ。朝
の起床時間や、あるいは夕方に外出した兵士たちがその音を聞いて兵舎に戻るべき時間を
知った。一般市民には関係のない習慣ではあっても、かれらの生活のリズムの中に号砲の
音は思い思いに位置付けられていたにちがいあるまい。要塞の屋根の上にはレイスウェイ
クRijswijkの時計商ファン・アルケンVan Arcken & Co.が寄贈した大きい時計の鐘が休ま
ずに時を告げていた。


ファン・デン・ボシュがその要塞を作ったのは新バタヴィア中心部の防衛戦略のためだっ
た。ヴィッテハウスと総督用レイスウェイクホテルは最重要防衛ポイントなのだから、ヴ
ェルテフレーデンからレイスウェイクにかけての一帯を防衛するための陣地構築はトップ
クラスの重要事項になる。

ファン・デン・ボシュ防衛線Defensie lijn Van den Boschと呼ばれたこの戦略は、スネ
ン鉄道駅東側のブグルブサールBungur Besar通り沿いに北上してクマヨランKemayoran南
で西に折れ、パサルバルPasar Baru商店街地区北側のサワブサールSawah Besar〜クレコ
ッKrekot更にモーレンフリートMolenvlietを横切ってザイヌルアリフィンK.H. Zainul 
Arifin通りに達してからプトジョPetojoに向けて南下し、タナアバンTanah Abang地区の
北でクブンシリKebun Sirih通りに向きを変え、プラパタンPrapatan通り〜クラマッブン
ドゥルKramat Bunderからブグルブサールに至る囲み線状に塹壕を構築するという構想に
なっていた。

塹壕として丈の浅い溝が掘られたが、雨が降れば水がたまるだけであり、おまけに新バタ
ヴィアに進攻してくる敵は一度も出現しなかったために、塹壕は結局埋め立てられて道路
の一部と化した。[ 続く ]