「語彙進化論」(2020年05月29日)

ライター: 倫理学修士、サムスディン・ブルリアン
ソース: 2003年11月8日付けコンパス紙 "Nasib Kata"

生命界においてすべての種とその変種は、変化を続ける環境の中でその生命力に応じて生
まれ、死ぬ。あらゆる種の生命体はその存在を維持するために厳しい闘いを続けなければ
ならない。数億年に渡って大した変化を経なかったサメのように、長期に渡って変化する
必要のなかった、きわめて効果的な少数の種ももちろんあるにはあるが、大多数の種は環
境に適応するか、さもなくば絶滅するしかなかった。

生きた言語の世界では、それが使われる世界の発展に応じて語彙は生まれ、死んで行く。
憐憫など存在しない競争の中で生き延びるために、語彙は厳しい闘いを続けなければなら
ない。大した挑戦を受けないまま長期に渡って生き延びる幸運なものもあるとはいえ、大
部分は外国語の侵入や言語使用者自身の暮らしに生じる急激な変化によって、競争と脅威
に直面し続けるのである。

あらゆる方面に知られて華麗に生き続ける語彙もあれば、言語学者の頭の片隅や分厚い埃
に包まれた辞書の中に寂しく残されているだけで、世間から忘れ去られる語彙もある。生
き残りを望む語彙にとっての効果的戦略のひとつは、他人の畑を我が物にしていく方法だ
ろう。ある語彙の語義が増加して繁栄し、隆盛を謳歌するなら、それは竹しか食べないパ
ンダと異なって、あらゆる物を食べることで地上の支配に成功した猿人と似たようなもの
であり、あるいは勤勉に自分の技能を拡大させる労働者が労働市場で生き残る可能性を高
めるのと同じだ。

たとえばnyarisの語はhampirの畑を冷酷に奪ったために、最近hampirの語はマスメディア
言語の世界でnyaris punahのあり様だ。昔nyarisの語は危険や望んでいないことを免れる
印象を伴う場合にのみ使われた。nyaris celaka, nyaris gagal, nyaris tertabrak, 
nyaris mati, nyaris kawin。ところが今や新聞は安々とolahragawan yang nyaris juara
などと物語る。nyarisが奪ったのは近い兄弟の畑だったが、kalauはもっと好き勝手に自
分の畑から脱け出して、隣人であるbahwaの畑に踏み込んだ。テレビラジオの対話の世界
でkalauはbahwaに取って代わって大人気のあり様だ。Dia bilang kalau kau sekarang 
sudah jadi dukun jarak jauh.


すべての語彙が生き延びようとして語義を増やそうとしているわけではない。中には元々
の重厚な語義をこそぎ落とし、浅薄な語義に変化してポピュラーになっているものもある。

jatidiriは最初、文学者マグンウィジャヤJB Mangunwijayaが紹介し、一夜のうちに有名
になってあちこちで使われた。ところがinnerlichkeitあるいはinner selfといった深い
意味を宿したその語彙はまたまた一夜のうちに自己のjatidiriを喪失して、単なるiden-
titasの同義語になってしまった。それどころか、kartu identitasの同義語としてそれを
使う者まで現れる始末だ。しかしそんな変化が起こらなければ、jatidiriの語は遠い昔に
絶滅していただろう。どうやら、深い語義に満ちた語彙がポピュラー単語になる条件のひ
とつに、哲学的あるいは学術的なウエイトをこそぎ落とすことがあげられるにちがいない。

だが、これはインドネシアだけのfenomenaではない。fenomenaという語彙自体が(口うる
さいひとにはfenomenonと言っておこう)インドネシア語に採りこまれたとき、大哲学者
イマヌエル・カントの想起した観念からはるかに浅薄な語義になって入って来た。そして
インドネシア語の中で更に薄味のものにされた結果fenomena yang tampakなどという句が
出現するようになった。まるで見えないfenomenaがあるかのような言い方ではないか。

元々の語義が忘れ去られ、まったく無関係な別の語義が貼り付けられてポピュラーさを保
っている語彙もある。往々にして批判の的にされているnusansaという語がそのひとつだ。
perbedaan halusあるいはperbedaan kecilを意味する英語から採り込まれたことを理解し
ているひとびとが、理解されなかったり誤解されることを惧れて、正しい語義で使うこと
を避けている。意欲的にnusansaを使っているひとは、間違って常識化したsuasanaの語義
でそれを使っている。そのふたつの語義のどこに類似点があるのだろうか。綴りが似てい
るということだろうか?

元々はindah menawan, sedap dilihatを意味したseronokのように、いったいどうしたこ
とか、その語彙は突然tidak senonoh,tidak sopanの意味で舞い上がった。多分綴りが似
ていたんだろう。se_ono_という恰好で。