「糞尿文学(終)」(2020年05月28日)

2000年に発表された小説Larungの中で、PKI(インドネシア共産党)の宣伝歌に使
われた俗曲グンジュルグンジュルGenjer-genjerに関連してアユ・ウタミAyu Utamiが書い
た文章は次のようなものだった。「グンジュルの葉はただお前の糞を粘つかせて長くする
だけの野菜だよ。」

ここでは、tinjaはイデオロギーにまとわりつかれたグンジュルの葉にとっての解放者に
されている。


詩人・ブルース歌手・諧謔家のスタルジ・カルズム・バッリは1966年の作品Tahiで、
糞尿論が特定の意味付けにいかに重く抑圧されているかということをわれわれに覚らせる
奇跡的な一種の語義転換を行って見せた。そのストーリーでは、汚らわしくおぞましい
tinjaが神の一触でナシゴレンに変ったのだ。

主人公の私は自分のtinjaをrantang(料理を持ち運ぶための重箱)に入れなければならな
かった。トイレがなかったからだ。一方、排泄は昼間にしたから、密かにそれを捨てに行
くことができなかった。あるとき、出かけていた私は友人に出会った。友人はもう四日も
欠食していると言う。貧困の重圧下に、私は冗談で友人を担ごうと思った。「家の中に飯
があるよ。新聞の下のランタンの中だ。」
私の家の鍵を受け取ると、友人は私の家に向かった。そして何が起こったか?

私が帰宅したとき、ランタンの中のtinjaはナシゴレンだという確信の下に食べられてい
た。自分が食べているものをtinjaと思わないで、友人はtinjaを食べたのだ。私はそのこ
とを友人に分からせようと努めた。次のような対話が登場する。
私はランタンを取り上げると、友人に突き付けた。
「臭いを嗅いでみろ。」
「傷んだ食べ物は糞のような臭いがすることもある。」

友人が私の家を立ち去るところで、この小説は終わりを迎える。問題は、それがtaiだっ
たということなのだ。おおー、taiよ。ああ、かれは何と気骨のある男なのだろうか。四
日間何も食わずにいながら、まだ煎りつける太陽の下を歩く力を持っている。おお、神よ。
あなたは何と強いのか。

この小説の結末に神の名が出現する点が重要なのだ。なぜなら、それがあらゆる可能性を
暗示するからである。ざっと考えたところで、少なくとも三つの可能性が思い浮かぶ。

(1) 友人は自分が食べるものをtinjaだと認知していたが、極度の空腹がその行為を可能
にしたのであり、神がその力の源泉になった。

(2) あまりの空腹のゆえに、友人はtinjaを本当にナシゴレンだと思って食べた。かれは
ナシゴレンの味をかみしめて愉しんだ。それこそが神の恩寵だった。

(3) 奇跡を生む神の力がtinjaを本当のナシゴレンに変えたために、友人はそれがtinjaだ
ったことなど露知らぬままに、ナシゴレンを食べた。

神の名が小説の結末に出て来なければ、このストーリーはただひとつの内容を語るのみだ
っただろう。それは人間が生命維持を目的に、tinjaをtinjaとして食べた物語だ。他の可
能性など想像の埒外だ。

神の登場はこのストーリーに数えきれない可能性を与え、tinjaはクリスタルのきらめき
を発して文学を形成したのである。そこに起こった奇跡とは、元々貧困を表す程度のもの
でしかなかったtinjaが、神の偉大さを象徴するものになり得たということだ。

物理学から文献学に至る諸理論をマスターしたひとなら、このインドネシア文学における
糞尿論のために、もっと洗練された内容をものすることができるにちがいあるまい。
tinjaをナシゴレンに変えるマジック以外に、文学が貧困に対して何を行え得るのかとい
うことが問題なのである。[ 完 ]