「コニングスプレイン(14)」(2020年06月03日)

アルメニア教会跡地から更に東へ5百メートルほど離れた場所が現在のジャカルタ首都特
別州庁舎だ。1919年にコニングスプレイン南8番地に建てられたのは西ジャワ州レシ
デンResidenの邸宅兼執務所で、9番地にバタヴィア市長Burgemeesterの邸宅兼市庁舎
Gemeentehuis Bataviaが建てられた。

VOC時代のバタヴィア市Stad Batavia行政を統括する市庁舎Stadhuisは城壁内の、現在
のファタヒラ公園Taman Fatahillahを前にするジャカルタ歴史博物館Museum Sejarah 
Jakartaだった。

城壁が撤去されて行政センターがヴェルテフレーデンに移されたとき、もちろん市庁舎も
それに追随した。ただしヴェルテフレーデンが国家行政と軍隊のセンターを意図されてい
たことから、1913年に市庁舎はタナアバンヴェスト35番地に移り、最終的に191
9年、コニングスプレイン南9番地に居を構えたということになる。

1920年代にメンテン地区の開発が進められた時、ビスホッププレインBisschopplein
に市長官舎が設けられた。市長の職住分離が行われた結果、コニングスプレイン南9番地
は百パーセント市庁舎Gemeentehuis Bataviaとなった。1926年10月1日から中規模
市に格上げされたバタヴィア市庁舎はStad Gemeentehuis Bataviaと名が変わった。

日本軍政期を経て共和国が発足すると、初代ジャカルタ市長スウィルヨSoewirjoのもとに
ジャカルタの建設が開始されたものの、AFNEI軍の進駐と手を携えて戻って来たNI
CAがジャカルタを占領して旧統治体制にもどした。プリブミによる市行政機構は市庁舎
から追い払われたのである。1948年3月9日、NICAは市庁舎をStad Gemeente 
Djakartaと改称した。

1949年12月27日のインドネシア共和国主権承認で市行政は再度プリブミの手に委
ねられ、1950年3月31日にスウィルヨ市長が自分の机に戻ることになった。195
4年にムルデカ通り8番地が市庁舎に合併され、今日の都庁Balai Kota Jakartaの基盤が
できあがった。


1871年、バタヴィアでの鉄道運行の開始に合わせて、コニングスプレイン東のイマヌ
エル教会の対面に当たる場所にヴェルテフレーデン鉄道駅Stasiun Weltevredenができた。
今のガンビルGambir駅だ。

できた当初はこの駅がバタヴィアの南ターミナルになっていたが、1873年にメステル
コルネリス経由バイテンゾルフまで線路が延長されたために、バタヴィアの都心駅の立場
に躍り出た。

その駅舎は1884年に改築され、新装なった駅舎は1917年に拡張されて1928年
まで使用されてから、アールデコ調の新デザインに改築されて共和国時代を迎えることに
なる。しかしインドネシア国鉄が都心部の鉄道高架化を行った関係で1992年に駅舎は
また改築されて現在のものになった。


ジャカルタで最初に作られた鉄道線路はバタヴィア港とコニングスプレインを結ぶ9.3
キロのものだった。ハーフェンカナールHavenkanaal東岸(現在のスンダクラパ港)の港
税関事務所クレイネボームKleine Boomから現在の国鉄コタ駅のおよそ3百メートル北側
を通ってマンガドゥアMangga Duaに達したあと、一路コニングスプレインへ南下する路線
を民間の蘭領東インド鉄道会社Nederlandsch Indische Spoorweg Maatschappij (NIS)
が設けて運行した。[ 続く ]