「シリを噛め」(2020年06月03日)

シリPiper betle Lの葉はただの葉っぱではない。サバンからメラウケに至るたいていの
種族の伝統儀式の中でシリの葉は特有の意味を持っている。ムラユの地でそれは親睦と友
好のシンボルだ。もしあなたがあるとき何らかの儀式の中に身を置き、シリを勧められた
ら、必ずそれを噛むことだ。

メダンで開かれたある伝統儀式に招かれた記者は、大勢の招待客の中に混じっていた。舞
台では着飾った5人の踊り子が艶やかに並び、アコーデオン・バイオリン・打楽器ふたつ
というムラユ音楽特有の楽隊パッポンpakpongがマカンシリMakan Sirihというタイトルの
歌曲を奏で始めると、5人は悠然と舞い始めた。手が揺れ、足がステップを踏む。

ムラユの特徴的な黄色い長クバヤと緑のスレンダンをまとった踊り子たちは前に進み後ろ
に下がり、また輪を作って踊る。真ん中にいる踊り子はトゥパッシリtepak sirihを持っ
ている。それはニリnyirihを行うために使われる材料が収められている箱だ。普通はシリ、
カプル、ガンビル、ピナンが使われる。かの女は箱を胸の前に抱いているから、手は踊り
に使えないが、身体全身を優美にくねらせて踊りに加わっている。

その歓迎の舞が終わりに近づいたころ、かの女は踊っている4人の仲間を後にし、客人の
前に進み出てトゥパッシリのふたを開き、座っている客人たちにニリを勧めた。客の何人
かがシリを取って口に入れた。


「この踊りはムラユの地におけるトゥパッシリの伝統を踏まえたものです。とは言っても、
この踊りはシリの伝統そのものほど古くはありません。元々これは民衆が創造したもので、
後にスルタンがそれを取り上げ、客を迎えたり婚姻の儀式を行ったりするときに行うトゥ
パッシリの作法をより華麗にするために使われるようになりました。ただシリを持って行
ってゲストに勧めるだけでは、見映えしませんもの。踊りを添えて優雅にお勧めするほう
が、ずっとビューティフルですわ。」
さっき踊っていたスムンダ舞踊塾の講師でもあるディルマル・アドリンさんはそう説明し
た。北スマトラのムラユの地におけるスルタンとは、メダンから80キロ離れたランカッ
Langkat王国から150キロ離れたアサハンAsahan王国まで、いろいろなスルタン国が存
在する。

その踊りがいつ創造されたのか、記録は何もない。ディルマルさんがまだ子供のころ、そ
れは既に儀式の一部に使われていた。反対にニリの伝統は記録に残っている。古代ムラユ
の文献に、カヴァレリ部隊が征服戦に向かったときの話が記されている。船から降りた部
隊はすぐ武器を持って攻撃をしかけるわけではない。先頭部隊はまずトゥパッシリを持っ
て外交に向かう。そのとき、軍司令官はまだ船の中にいるだけだ。

ニリのための諸材料がそろえられているトゥパッシリを先頭部隊指揮官は相手の軍司令官
に献上する。相手がそれを受け取ったなら、戦争の意志がないことの表明になる。そうな
れば戦いは起こらず、両軍司令官は手を握り合って宴を始める。もし相手がトゥパッシリ
を拒否して受け取らなかったら、そのときはじめて両軍は武器を握ることになる。シリが
いかに親睦と友好のシンボルにされてきたかということを、それは物語っているのだ。

トゥパッシリという器具は今でもメダン市内クサワン地区などにある骨とう品店で目にす
ることができる。金属・木・竹・パンダンの葉などで作られているこの箱は、円形や四角
のさまざまな形に種々のデザインが施されていて、そのバリエーションを楽しむことがで
きる。箱の内部は植物のデザインをメインにした装飾で飾られている。


現在でもムラユ人社会でニリの慣習はいまだに生きている。一般大衆から貴族層に至るま
で、すべての階層でニリが行われているのだ。ニリの機能はふたつある。普通の日常生活
の中での軽食の機能、そして他人との接点で客への歓迎を表わすシンボルとしての機能。

もしムラユの地で何かの催しの中に身を置いたとき、だれかがあなたにシリを勧めたなら、
迷わずそれを口にするほうがよい。あなたがそれを示して見せれば、それはあなたがかれ
らの善意を受け入れたことを示し、更には、来訪者である客人と地元の主人を含めた共同
体社会一同が友好関係に入り、兄弟になったことを表明するものになるのだから。

昔は、客人がやってきて、勧められたシリを食べようとしなかったとき、アダッ長老はた
いへんな怒りを示すのが普通だった。今はそのような態度を見せることはあまりないが、
地元の主人から社会一同が客人に心を閉ざすようになってしまう。その土地にやってきた
のに、地元民から相手にされなくなれば、たいへんなことになる。

スルダンSerdang王国アダッ頭領のトゥンク・ルッマン・シナル氏は、シリを食べること
が対話の端緒であり、民衆間の親睦を開くものである、と言う。シリは対等な人間同士の
間に友好のメッセージをもたらすものなのだ。

このムラユ文化独特の友好のしるしは、作家たちがしばしば書籍の前書きに盛り込むよう
になった。たいてい、sekapur sirih seulas pinangという成句が冒頭に書かれている。
その成句は筆者と読者の間で対話が開始されるためのシンボルにされているのだ。シリ、
トゥパッシリ、スカプルシリ、マカンシリはムラユの地が示す友好のシンボルなのである。