「ジャムゥゲンドン(2)」(2020年06月30日)

用い方が異なっても、ジャムゥの効能は基本的に同じであり、身体の弱った部分を回復さ
せ、健康を維持させ、病気を予防する点にある。param、pilis、lulur、mangirは美容面
に重点が置かれている。

症状に応じてジャムゥの素材が選ばれる。風邪ひきmasuk anginにはウイキョウadas、マ
イレpulosari、ショウガ、カルダモン、コメ、バンウコンが予防と治療に使われる。肝臓、
身体の凝りや痛み、太りすぎ、肌の美容や体臭にはターメリック、タマリンドasam、ジャ
ワジンジャーが用いられる。たいていひとつの調合ジャムゥには5〜15種類の素材が組
み合わせられる。粉末ジャムゥ生産者は薬草の根・茎・皮・葉・花・種・芋などの区分別
で168種類を使っている。


ヌサンタラでのジャムゥ利用は石器時代から行われていた。チャンデイボロブドゥルの壁
画も、その古さを示すものだ。そこには薬用植物を砕いたり調合しているひとびとの姿が
描かれている。そのレリーフには健康と生命の源泉としての自然を象徴するカルパタルの
木がはっきりと彫りこまれている。

ジャムゥの歴史においてその知識は最初、宮廷の貴族層だけが身体の健康と肉体の美を目
的にして所有するものだった。17世紀初めにオランダ人植物学者ヤコブス・ボンティウ
スJacobus Bontiusが60種類の薬用植物を発見してHistiria Naturalist et Medica 
Indiaeと題する書物に記載した。ファン・レイデvan Rheedeがその業績を引き継いだあと、
マルクに住んだルンフィウスGregorius Everhardus Rumphiusがアンボイナ植物誌Herbarium 
Amboinenseという書物の中に集大成した。日本軍政期には、Formularium Medicamentorum 
Soloensisという書物が作られている。

最初は宮廷の一族に独占されていたその知識も、そのうちに王宮の壁周辺に住むひとびと
に知られるようになり、ついには一般社会にあまねく知れ渡るようになった。そのうちに
商業化が行われて、タビブtabibが治療に使い、ワルンで販売され、クバヤ姿の美女たち
が売り歩くようになる。かの女たちは普通、数人グループで行商したから、最初は煮汁を
詰めたビンを満載した籠を背負った大集団が部落を発ち、そのうちに行く先別に分かれて
集団が縮小して行くかっこうになる様子が一般的だった。

最初は各家々で自家用のジャムゥとして作られ、消費されていたものが、商業化の発展と
共に工場で量産されるようになった。中部ジャワ州ウォノギリの庶民の家に生まれたTK
スプラナが20世紀初頭にジャムゥの粉末化に挑戦して成功したのである。かれの革命的
な偉業によってジャムゥはどこにでも持ち運びでき、いつでも簡単に飲むことができるよ
うになった。かれは1918年にジャムゥジャゴJamu Jagoのブランドで大量生産を開始
した。その後を追って、ジャムゥ製造工場があちこちに作られるようになる。1919年
にニョニャムニールNyonya Meneer、1951年にシドムンチュルSido Muncul、1963
年にアイルマンチュルAir Mancur、そして今やそれらの大規模生産者から家内工業に至る
大小の商業用ジャムゥ生産者は6百に上り、数千人の従業員を雇用している。

国民消費者のジャムゥ利用も根強いものがあり、街中のあちこちにアウトレットが見られ、
またメディアの宣伝広告も盛んで、業界の年間売上高は2.4兆ルピアに達している。

ジャムゥ製造業界が世に送り出している製品は大別して三種類ある。伝統的ジャムゥのレ
シピに従ったもの、伝統的ジャムゥの改良型、フィトファーマシーの三つだ。フィトファ
ーマシーとは医薬品製造規定の標準条件をクリヤーする植物素材を使ったもので、その三
種類の製品をジャムゥジャゴ社は台湾・サウジアラビア・ベトナムへ輸出している。
[ 続く ]