「benarとbetulは違う」(2020年07月02日)

ライター: 語義傾注者、サムスディン・ブルリアン
ソース: 2011年8月19日付けコンパス紙 "Benar Tak Sama Betul"

benarとbetulの違いは、接辞の付けられた派生語を比較するとよくわかる。たとえばpem-
betulanはメンテサービス屋が道具類をあれこれいじくり回す作業に関わっているが、
pembenaranは言ってみれば、国会議員の甥が議員事務所のリノベーションを請け負うこと
が適切かどうかという評価に関わっている。pembenaranはpembetulanの同義語として代替
できることがあるとはいえ、pembetulanがpembenaranの意味で使われるのはなじまない。

membetulkanとmembenarkanについても同じだ。membetulkan komputerは、それが本当に行
われたかどうかは別にして、ただだれかが何かをしたことに触れているだけだ。ところが、
「審議の渦中にある事件の被告弁護人とふたりきりで、薄暗いレストランで判事が食事を
していたことをmembenarkanする」というのは、その出来事に触れているだけでなく、特
に倫理面での価値観、フェアかアンフェアか、ふさわしいかどうか、ということをも含ん
でいるのである。

その用法の違いは英語にするともっとはっきりする。membetulkanとはto correct, to 
repair, to reviseなどだが、membenarkanにはそれらに加えてto justify, to legiti-
mize, to confirm, そしてこじつけが加えられたならto rationalizeも対象になる。


kebetulanとkebenaranも同様だ。kebetulanはketidaksengajaanの要素を強く含んでいる。

Kebetulan sekali setelah makan banyak saya jadi kenyang. などとわれわれが言うこ
とはありえない。たとえ本当に腹いっぱい食べて満腹したとしても、多食と満腹の間に偶
然性は存在しないのである。kebetulanがketidaksengajaanの要素なしで使われることは
めったにない。kebenaranも同じ意味で使われることはあるが、それに加えてkebenaranは
本当に起こったことや受け入れられるできごとに使われる。Adalah kebenaran bahwa se-
telah makan banyak saya kenyang. はたいへん妥当な文なのである。


sebenarnyaとsebetulnyaはそのような違いがない。そのどちらもが事実を指しているから
であり、sesungguhnyaと同じ意味で使われる。sebenarnyaには普通、倫理的価値が付随す
ることはない。同様に基語benarとbetulも普通は互換性を持っている。われわれはここに、
benarとbetulの非対称性を見出すのである。pembetulan/membetulkanは普通、生徒が試験
問題に答えるときのような事実としての正誤を述べているのに対して、pembenaran/mem-
benarkanは事実としての正誤に加えて、試験で生徒が隣の生徒の答案をカンニングするよ
うな、倫理面における正誤をも含めるときに使われる。

試験と言えば、読者は上の定義にもとづいて、次のような状況が確実にbenarだが多分
betulであると言えるか、それともbetulであってもbenarとはかぎらないという判断を下
せるだろうか?思い違いやえこひいきなしに、純粋に正直に、杓子定規な規範で情実なし
に、真剣に、真に合法的に、正確に、改善のために。

「アリババは上司の選挙キャンペーンのために金を盗んだことが立証された。」という事
実に対して、もしそれが本当に起こったことだとしたら、それはbetulkanされうるが
benarkanされえないものなのだろうか?