「食糧危機(5)」(2020年09月25日)

かれは1932年12月7日付けプワルタデリ紙の記事を次のように引用した。
町では、刑務所の門に寄って来る者が絶えず出現した。もうこの苦難に耐えられないから、
刑務所に放り込んでくれ。刑務所に入れば腹を満たすことができるが、外にいれば一日一
回食えるかどうかもわからない。・・・・

1933年3月27日付け新報Sin Po紙からは、飢えていたからニワトリを盗んだだけな
のに、それでも9カ月の入牢刑罰が与えられた。・・・・

この初期段階のスカルノはまだあまり行動的でなく、民衆の苦難を世の中に知ろ示すこと
に意を注いでいた。自分の出身家庭が貧困だったことから、かれにとって貧困庶民への思
い入れは特別なものがあったようだ。南バンドンでカン・マルハエンKang Marhaenなる人
物に出会ったあと、スカルノの貧困庶民への思い入れは厚みを増した。最終的にスカルノ
は、インドネシアの貧困小作農民のシンボルとしてマルハエンの名前を使っている。

1938年から42年まで流刑先のブンクルBengkuluでスカルノが毎週土曜日に行ってい
た種々の討論会で、かれは食糧問題をテーマのひとつに取り上げている。「米とトウモロ
コシのどちらが良いのか、そしてそれはなぜか?」というテーマに議論の花が咲いた。


その後スカルノが食糧危機に直面したのは日本軍政期だ。対日協力姿勢が諸方面から非民
族的だと非難を招いたその時期、日本軍が全方面戦争の糧食を支えるためにジャワ農民か
ら米を取り上げようとした時、スカルノは知恵を働かさなければならなかった。

ジャワ島を陥落させた後、日本軍は自分たちの食糧確保に取り掛かった。スカルノはその
とき、スマトラのパダンにいた。米の複雑な問題に直面しており、力ずくで取り上げるよ
うなことはしたくない、と語って日本軍はスカルノに協力を要請した。

拒否すれば日本軍は力ずくの手段に訴え、プリブミ農民が虐待されることになる。日本軍
に米を提供したほうが良い結果になるだろうとスカルノは考え、大規模商人らに米を用意
するよう要請した。短期間のうちに米は日本軍の手に渡った。しかしそれだけでは済まな
かった。

そのためにあちこちで食糧不足が起こり、日本兵はプリブミの米を取り上げようとした。
たくさん米を持っている者からは容赦なく取り上げた。金持ちはたくさん米を持てるとい
う不平等社会はそのころ消滅した観がある。もちろん、被支配者がいくら平等になっても、
喜ばしいことかどうかは別問題だ。

ジャカルタでスカルノがプートラPusat Tenaga Rakyat (Putera)の指導者のひとりになっ
たとき、民衆の食糧確保をも推進した。かれはパパヤの種を集めて民衆に一人当たり2個
配り、家の周囲に植えさせた。ジャワ島のいたるところにパパヤの木が育ち、民衆は空腹
の一部をそれで埋めることができた。

日本軍はラジオ受信機に特製スピーカーを装着させて、スカルノの演説を村々の民衆にも
聞かせるようにした。スカルノは民衆に説いた。
「女性の皆さん、あなたの時間が空いたとき、インギッさん(スカルノの妻Inggit 
Garnasih)やわたしが行っているようなことをしてください。あなたの家の前庭に食べら
れる何かを植えるのです。それは皆さんの食べ物を増やすことに役立ちます。」

その演説は効果を発揮し、家々の表にはトウモロコシが育って、民衆の空腹を和らげるこ
とができた、とスカルノは語っている。[ 続く ]