「マジャパヒッ王国の米政策(前)」(2020年09月29日)

国と村は獅子と森のように密接な関係にある。村が損なわれたら、国は食糧が不足する。
兵士がいなくなれば、他国はわれわれを容易に侵略するだろう。だからそれらは共々に育
成しなければならないのだ。余は汝らにそうするよう命じる。

マジャパヒッ王国のハヤムルッHayam Wuruk王はワヌアwanuaを行政域内に持っているワド
ノwadanaたちを前にしてそう述べたことがナガラクルタガマNagarakertagama第89編第
2節に謡われている。ワヌアとは現在のデサ(村)に該当し、ワドノは行政区の最高位者
(領主)を意味していた。

ハヤムルッ王のその声明は食糧の重要性への認識を明白に示すものだ。ナガラクルタガマ
には、あちこちに食糧の重要性に関する記述が散りばめられている。第88編2−3節で
は、ウンクルWengker領主スリナタウンクルSri Nata WengkerがブバッBubatで行われた大
祝祭でハヤムルッ王と王国高官やワドノらを前にして述べた言葉が記されている。ウンク
ルは現在のポノロゴ南部地方の旧名だ。
「王への愛と誠実なる奉仕を示しなさい。特に高地と水田が繁栄し続けるように。」とス
リナタウンクルは述べた。ハヤムルッ王はただ命令するだけでなく、自ら率先してティガ
ワギTigawangiのワッサリWatsariを開墾し、手本を示した。マジャパヒッの高官たちも同
じようにした。


ンプ・プラパンチャMpu Prapancaはナガラクルタガマ第82編に、ウンクルの領主ウィジ
ャヤラジャサWijayarajasaがパスルアンとパジャンの開墾を行い、ハヤムルッ王がティガ
ワギの森を切り拓いたと記している。その畑地開墾跡は現在のクディリKediri県パレPare
郡にあり、そのときに作られた地下水路は今なお存在している。

それを記念してチャンディスロウォノCandi Surowonoがハヤムルッの叔父であるブレウン
クルBhre Wengkerによって、チャンディティガワギがウィジャヤラジャサの息子と思われ
るマタフン王子Pangeran Matahunによって建立された。

パレ郡チャング村スロウォノ部落にある5つの泉はそれぞれが地下水路入り口になってい
て、5〜6十メートル離れた他の泉とつながっている。地下水路内部はアーチ型になって
おり、身長170センチくらいまでの大人が立って通行できる大きさだ。しかし泉から6
0センチ低いだけの場所もある。

チャンディスロウォノは地下水路の入口からほんの数十メートルの距離に建てられた。そ
のチャンディの裏側には地下水路につながる部分があって、お供え物をそこから地下水路
に流すこともできる。この地下水路は近くを流れる川にもつながっており、この地方では
三期作が行われ、干ばつの時期がなく、また洪水に見舞われたこともない。現在の水路内
には常に水がたまっており、深さは10センチから70センチ程度までさまざまだ。

わざわざ地下水路にしたのは、その時期にそのエリアが比較的密度の高い住宅地区になっ
ていたため、住民を立ち退かせることを避けた可能性が推測されている。東ジャワには1
0世紀から16世紀にかけてのヒンドゥブッダ時代に設けられた水利施設が各地に散在し
ている。それらの施設を建設するための技術を、当時のひとびとはインドから学んだよう
だ。ジャラサストラJalasastraやシルパシャムシタSilpa Shamsitaなどの書が読まれてい
た可能性が高い。


1293年から1486年までのマジャパヒッ王国時代に食糧生産は大幅な増加を見せた。
新水田を開墾する農地拡張のみならず、用水路や運河、ため池やダムに至る灌漑施設建設
が盛んに行われて、単位当たりの増収も進んだ。1973年から80年にかけて国土調査
地図統括庁が行った全国の航空写真から、マジャパヒッが首都を置いたモジョクルト県ト
ロウランTrowulanに井型の運河網が作られていたことが明らかになっている。

運河網は南北4.5キロ東西5.5キロあって、幅は最大で80メートル、深さは最大で
9メートル。今日、それらの運河は水田・住居・道路などに覆われているため識別できな
くなっているが、運河跡と判断できる場所は少なくない。[ 続く ]