「ヌサンタラのスエーデン人」(2020年09月30日)

1743年12月9日、スエーデン船ヨテボリGoteborg号がバンテン港に入った。この船
はスエーデン東インド会社Svenska Ostindiska Companiet SOICの武装商船だ。

1743年12月13日のバタヴィア城日誌Dahregisterには、バタヴィアのVOC総督
宛てにバンテンのスルタンが送った三人の使者が報告書を携えてやってきたことが記録さ
れている。アストラ・プラナ、ドゥタ・ウィナタ、スラヤ・ディナタという三人の使者は
VOC職員に迎えられ、総督からの返書を持ってバンテンに帰って行った。バンテンはV
OCの敵に協力しないという条約をバタヴィアと結んでいるから、やってきた船が敵国船
かどうかをバタヴィアに確認しなければならない。

イギリスと戦争中のVOCにとって、スエーデンは友好国であるから無下に扱うこともで
きないが、かといってSOICはビジネスでの競争相手になるわけで、甘い顔ばかりする
わけにもいかない。VOC総督はスルタンにスエーデン船への補給を行うよう命じた。


1743年12月22日、ヨテボリ号乗組員ニルス・ストロームとアンダース・クテンの
ふたりがバタヴィアにやってきた。ふたりはVOC職員に対してヨテボリ号が求めている
補給内容について説明した。地元産のアルコール飲料アラッarak、薪、そして火薬だ。V
OCはそれらの要請に応じて物資を与えた。火薬は20袋だった。風待ち状態に入ってい
るヨテボリ号はその間、乗組員のアラッの需要を満たすのに大わらわだったようだ。

ヨテボリ号がジャカルタ湾に投錨したのは1744年1月9日のこと。ヨテボリ号は大型
船だったためにバタヴィアのハーフェンカナールに乗り入れることができず、バタヴィア
港までは短艇を使わざるを得なかった。


当時バタヴィア住民の中にルーテル派新教徒は少なくなかったが、ルーテル派の神父はお
らず、教会もまだバタヴィア内に作られていなかった。ヨテボリ号にルーテル派の神父が
いることを聞きつけた住民はペッター・ホルマート神父に礼拝の集いを司ることを求め、
了承された。時のVOC第27代ファン・イムホフGustaaf Willem baron van Imhoff総
督もルーテル派だったから、話はとんとん拍子に進んだのだろう。

バタヴィアで初めてのルーテル派の礼拝の集いはバタヴィア城市城壁内南部の高官邸で催
された。現在の国鉄ジャカルタコタ駅に近い辺りだそうだ。ルーテル派教会は1749年
にバタヴィア市庁舎前広場Stadhuisplein北側の、現在カフェバタヴィアのある建物群の
辺りに設けられたものの、19世紀に取り壊されてしまった。インドネシアにおけるルー
テル派キリスト教活動の発端にスエーデン船が関与しているのは、まぎれもない事実であ
る。

ヨテボリ号は1744年4月26日、バタヴィア号沖で錨を上げ、広東に向けて出帆した。
千人を超えるバタヴィア在住ルーテル派新教徒は涙を流してペッター・ホルマート神父が
去って行くのを岸壁から見送っていた。