「ヌサンタラのドイツ人(2)」(2020年10月02日)

VOCバタヴィア総督にもドイツ人がいる。ファン・イムホフGustaaf Willem baron van 
Imhoff第27代総督がそのひとだ。かれのドイツ語名はGustav Willhem Baron von Imhoff
で、オランダ国境に近いレアLeerの町で生まれた。Imhoffという名称はImhofあるいはIm 
Hofと綴られたこともある。領主として爵位を与えられていたファミリーの出身だったよ
うだ。この一族はヌーレンバーグNurenbergを本拠地にしていた。

かれは20歳でオランダのVOCに入社し、東インドで二級商務員の履歴をスタートさせ
た。翌年には一級商務員、そして上級商務員へと階段を上り、更に港湾監視官、バタヴィ
ア参事会特別顧問などを歴任した。31歳でセイロン行政長官に任命された後、1740
年3月、4年間務めたセイロン行政長官の人事異動で業務を後任者に引き継いだかれは、
バタヴィアに戻った。

セイロン行政長官はバタヴィア総督の直属の部下になり、人事異動権はバタヴィア総督が
持つ。VOC管轄地域の本拠地がバタヴィアなのだから、ケープタウンから出島まで各現
地支部の人事権がすべてバタヴィア総督の手に握られていたのである。

ファン・イムホフがセイロンからバタヴィアに戻されたのは、現地政策が地元民族寄りだ
ったために危険視されたという話があり、一方でかれの政策が現地でのかれの人気を高め
たことへの不快感がバタヴィア総督に生じたという説もある。そのときのバタヴィア総督
がアドリアン・ファルケニールAdriaan Valckenierだ。


折りしも、アドリアン・ファルケニール第25代総督の華人対策がきな臭い雰囲気を高め
つつある時期に当たっていた。ファルケニール総督はバタヴィアで増えすぎた華人の人口
調節を行おうとし、南アフリカやセイロンに華人を強制移住させつつあった。ところが華
人社会で扇動的な噂が流れたのである。

移住させると言ってVOCの船に乗せられた華人は、沖に出たあと海中に投げ込まれてサ
メの餌食にされているのだという噂話だ。その結果オランダ人に対する華人の反抗行動が
起こり、50人ほどのオランダ人が殺害された。1740年10月9日、ファルケニール
総督はバタヴィア防衛軍に対抗行動を指令した。

武力鎮圧の姿勢を見せれば反乱者はおとなしくなるという総督の思惑は完全に的が外れた。
華人の武力反抗は一層盛んになり、バタヴィア防衛軍はますます殺りくを繰り返すことに
なって、その後の数日間で5千から1万人の華人を主体にするバタヴィア居住民が殺され、
史上に名を遺すバタヴィア華人大虐殺事件(インドネシア語ではgeger pecinan, 華人街
騒乱)に発展してしまう。

バタヴィア防衛軍の銃と剣の下をくぐり抜けた華人反乱者たちは中部ジャワへ逃れて行く。
在ジャワ島華人とVOC間の戦争の導火線がそのバタヴィアの騒乱だった。華人兵力はマ
タラム王国のスナン・パクブウォノ二世に接近してVOCに対する共同戦線を打ち建て、
1741年8月にスラカルタのVOC要塞に対する総攻撃が開始された。VOC本社の重
役会がファルケニール総督のこの失政を黙って放置するはずがない。


ファン・イムホフはファルケニール総督の近くにいて、総督が40年10月9日にバタヴ
ィア防衛軍に下した指令をいさめようとした。すると総督はファン・イムホフを逮捕させ
てVOC本社に送還したのである。

総督はファン・イムホフの本社重役会に対する影響力を軽視したにちがいない。重役会の
査問にファン・イムホフの答弁がどのような色彩を帯びたかは想像にあまりある。174
1年11月にファルケニールは総督職を解任されてヨハネス・テーデンス第26代総督に
その座を引き継ぎ、本社に呼び戻された。

ところがファルケニールがオランダへ向かっていた途中のケープタウンで、本社からの別
の指令がかれを待ち受けていた。バタヴィアでかれに対する裁判を開くというのがその内
容だった。本社重役会への弁明の余地も与えられないまま、かれはバタヴィアへ回れ右せ
ざるを得なかった。[ 続く ]