「商業セックス就労者」(2021年01月19日)

ライター: 文司、デポッ在住、アヤトロハエディ
ソース: 2003年9月27日付けコンパス紙 "Pekerja Seks Komersial" 

1950年代のジャカルタにはロンテlonteがたくさん徘徊していた。ところが60年代
になると、ロンテは消え失せた。ロンテを行う者がいなくなったのではなく、名前が変わ
ったということなのだ。その言葉があまりにも下品で人間味が感じられないために非人道
的であるというのがその理由だった。KBBIにあるロンテの語義はperempuan jalang, 
wanita tunasusila, pelacur, sundalとなっている。こうしてもっと人数が増えたかの女
らはWTS wanita tuna-susila という公式名称に落ち着いた。

ジャカルタでは、ロンテと共にbunga malamやbunga jalan、あるいはpalacurたちも徘徊
した。プラチュルのKBBIの定義は、parempuan yang melacurとなっている。bunga 
malamやbunga jalanは下品さを覆い隠そうとした修辞文句だ。それを使う事で、会話して
いる人間に上品な印象が生じた。

言葉の問題は上品にできても、社会のかの女たちへの見下し様は感情を逆なでするものだ
った。おまけにプラチュルへの一方的な蔑視をも漂わせた。もしかの女らをラチュルする
者orang yang malacuri merekaがいなかったら、プラチュルははたして成り立ち得るのだ
ろうか?(訳注:lacurにはmalang, celaka, sialとburuk lakuのふたつの意味がある)
WTSの公式呼称にも、特に女性をメインにして抗議が出された。tunasusilaは女性だけ
にある性質なのだろうか?男性にはそれがないとでも言うのだろうか?WTSを女性だけ
のものとして使うのは、かの女たちを買う男たちがいないとその職業が成り立たない事実
を無視している。WTSという職業が成り立つためには男のtunasusilaがいてこそ、はじ
めて手に手を取って繁栄するのではないのだろうか。

プラチュルの呼称にしても同様だ。この名称も明らかに片手落ちの姿をしている。プラチ
ュルというのは女を買う男に対して使われるべき言葉であり、女に対してはterlacurある
いはlinacurとするのが言語学的に正しい用法だ。


こうしてレフォルマシ時代に、レフォルマシ精神の発露としてpekerja seks komersialと
いう言葉が世に送り出された。この言葉は一見、女性の人権と人格を尊重しているように
見える。ところが、またまた問題が出て来た。この表現だと、かの女らがこれまで行って
きた活動が、生計のために人間が行う正当な職業活動であるという位置付けになってしま
う。pekerjaである以上、法規や政府の労働政策諸方針に従わなければならず、また労働
組合を組織する権利も与えられている。かの女らと、日雇い労働者、肉体労働者、社会活
動家との違いはどこにあるのか。つまり、かの女らがpekerjaであるなら、他の勤労者と
同様の権利と義務がかの女らに与えられてしかるべきだということになるのである。かの
女らの職業は合法的で、公的で、おのずから法に保護されているということになる。その
論理から次に引き出されるのは、かの女らは手に入れた収入の所得税を納める義務がある
ということだ。もしそこまで事が進むなら、政府はその職業を公式に承認しなければなら
なくなる。

ところが、名前がどう変わろうが、かの女たちへの待遇に変化が起こったためしはない。
かの女たちに対する手入れが定期的に行われているのである。かの女たちは就労場所で捕
まえられ、トラックのむき出しの荷台に詰め込まれて連行される。pekerjaという名に変
っても、与えられているはずの権利である法的保護の享受などどこにも見られない。他の
職業ならどんなに小さかろうが不公平であろうが、法の保護を訴えることができるのは確
かなのだ。かれらが法的措置を受けるのは、ストや雇用している会社に損害を与えた場合
にかぎられている。pekerja seks komersialだけが、自分の職業に従事しているときに手
入れのやり玉にあげられるのである。

その点においてpekerja seks komersialは事実上、諸権利がたいへん制限されている。ラ
マダン月が近付くと、たいていいつもかの女たちに対して、仕事をするなという呼びかけ
が出される。つまり、商業に区分されていると考えられるそのビジネスの実施が禁止され
るのである。それはきわめて不公平な仕打ちだと言えるにちがいあるまい。他の勤労者た
ちには「仕事を休むな」「ストをするな」「褒められない行動を抑制せよ」といった呼び
かけが与えられるだけだというのに。

こんなことなら、いったいどうしてこの、人に優しいものではあるが意味のまったく不明
瞭な言葉が作られたのだろうか。元々使われていたロンテやスンダルあるいはプラチュル
などの言葉に戻す方がまだマシなのではあるまいか。かの女たちが手入れを受ける理由は
明白だ。行っている仕事が社会にとってよくないことと見なされているからだ。スンダ語
と比較して見るなら、スンダ語の世界でbeel, telembuk, ublag, ungklukなどの言葉は女
性に対してしか使われない言葉なのである。