「アチェの分離主義(終)」(2021年05月05日)

チュッ・ニャッ・ディンはトゥク・ウマルの叔父の娘であり、かの女は夫トゥク・イブラ
ヒム・ラム~ガがゲリラ戦で没したあともゲリラ闘争を続けていて、トゥク・ウマルとの
共同ゲリラ戦線がそのふたりを結び付けたようだ。そのトゥク・ウマルもオランダ植民地
軍に殺され、おまけにチュッ・ニャッ・ディンは盲目になったが、そんな悪条件さえ、か
の女に反オランダ武力闘争をやめさせることはなかった。きっとかの女は典型的なアチェ
人女性リーダーの資質を持ったひとりだったのだろう。悲劇の運命を背負った人物だった
ことは間違いあるまい。

ウレバランの指揮下に行われていたゲリラ闘争はチュッ・ニャッ・ディンを最期にして潰
え去った。だがフィサビリラ戦士たちの武力闘争は日本軍がやってくるまで散発的に継続
した。その行動を民衆の中にいる過激派テロリストの単なる暴力行為だと言ってしまえば、
実行者本人たちにとっては、はなはだ不本意なことになるのではあるまいか。


そんな歴史を持つアチェであるなら、オランダ領の色が塗られたヌサンタラの領域が独立
共和国になったとき、その中でほんの数十年前までオランダ領になっていなかったわれわ
れは他種族とは違う、という意識がアチェ人に湧いても不思議はあるまい。実際に、日本
軍がやってくるまで植民地軍とのゲリラ闘争を続けていたひとびとはオランダへの服属を
認めないからこそ生命をかけて闘争していたのである。

オランダが一方的にアチェを領土だと言い張ったために、共和国主権承認の結果オランダ
の領土がまるごとインドネシア共和国に移管されたとき、アチェ人の意志と無関係にアチ
ェがそこに引きずり込まれたというのが政治的な流れだとアチェ人の一部は言う。

それは歴史が作り出した虚構であってアチェ民衆が合意したことでなかったのだから、ア
チェ分離主義問題を見るとき、アチェがインドネシア共和国から分離したいという観点か
ら見るのをやめて、時間を1873年の状態に戻したところからこの問題を見るようにし
てほしいというのが、アチェ分離主義者と呼ばれているひとびとの意識にあるコンセプト
のように思われる。これに似た話はインドやパキスタンでもいろいろと出現したし、いま
だに戦闘がぶり返す土地もあるようだ。歴史の虚構を既成事実に位置付け、その大前提か
らの発想として分離主義という言葉を持ち出しているかぎり、アチェ人にとってはオラン
ダ植民地主義者も統一インドネシアを標榜する現代インドネシア政府も同じ穴のむじなに
しか見えないかもしれない。


アチェ人は過去の歴史への心的固着が強いとアチェ人自身が語っている。アチェ人は歴史
が好きで、歴史を学ぶことを好み、得た知識を総合していっぱしの歴史家になる。ヌサン
タラの中で最初にイスラムが土着化したのがアチェの地であり、スルタン・イスカンダル
・ムダとアブドゥル・ラウフ・アルシンキリがひとりは政治軍事面、もうひとりは宗教面
で黄金時代を築いた立役者であることを地元民は今でも誇りにしている。それが中央政府
への不満に直面したときに民衆をパルチザンにし、権力者への反抗心をますます強める結
果をもたらすのである。

たとえスルタン制が独裁的であって民主主義的でないと言われても、国の繁栄と民の豊か
さをもたらしたものがそれであるなら、スルタン制のどこが悪いと言うのか。民主主義が
善であるのは、それが最大多数者に繁栄と豊かさをもたらすがためであって、そうでない
民主主義でも名前が民主主義であれば善だというのは、形式主義者が抱く貧しい価値観だ
ろう。

オルバレジームを指導したスハルト大統領が満面の微笑みで語る「わしの時代は良かった
だろうが・・・」のカリカチュアがインドネシアの大衆にいまだに憧憬と郷愁を掻き立て
ているのが事実であることを忘れてはなるまい。[ 完 ]