「北スマトラの食(3)」(2021年07月22日)

事業マネージメントや種々のサービス業への人材需要が急騰し、知識層に対する求人が増
加した。このフェーズには人種的な制限が何も起こらなかったから、プリブミから華人系
やヨーロッパ系に至る幅広い層の人間がメダンに集まって来て、その繁栄の分け前にあず
かった。それが多分、華人移住者に関する限り、第三の波になったのではあるまいか。


メダンの街の発展史の中で、プチナンは最初、クサワンKesawanに作られた。華人たちは
木造の中華風デザインの家屋を建てて住んだので、地区内に一歩足を踏み入れれば、まる
で異郷に来たかのような思いに包まれたそうだ。1890年代の大火で多くの家屋が焼け
たために、その後は石造りの建物がマジョリティを占めるようになった。

メダンの植民地行政は1920年代になって、鉄道線路の東側に第二のプチナンを作るこ
とにした。現在のハルヨノM.T. Haryono通り、パンドゥPandu通り、チルボンCirebon通り、
アシアAsia通りなどの一帯がそれだ。その中のスマランSemarang通りはいま、中華食堂街
になっている。

このメダン第二のプチナン地区では、1930年代ごろからスラバヤ通りがアッパーミド
ル層の食堂街としての地位を得た。中華街にある高価なブランドもの商品を扱うブティッ
クで買い物したあとに、エリート階層の仲間入りをしたひとびとが食事をとるのにふさわ
しいレストランがそこに集まっていたのだ。

しかし時代の変化と共に、通りの顔も変遷を続けた。今やスマラン通りがメダンっ子の食
の人気を集めている。そこは、昼間は普通の商店街で自動車部品屋がメインを占めている。
だが夜になって商店が閉まると、18時ごろからカキリマ屋台がぼつぼつと商売の準備を
開始する。

椅子やテーブルが並べられ、道路の真ん中に料理を運ぶカートや調理器具が置かれて、こ
の全長2百メートルくらいの通りは四輪車が一台通れる程度の幅に狭まる。この屋台食堂
街は午前1時ごろまで毎晩活況を呈するのである。

ミークア、ミーゴレン、サテ、北京ダック、海南ダック、貝、カエル、トカゲ、蛇、ナシ
サユル、ロントンサユル、そしてマルタバッも顔を出す。飲み物はビールにジュース、そ
して北スマトラで忘れてならない郷土飲料cap Badakも。

ひとが混みあう時間帯になれば、大家族やら小家族、若者グループから年寄りまでが、テ
ーブルに陣取って腹を満たす。かれらの顔を見るなら、華人系からバタッ、カロ、インド
系、ジャワ、ニアス人からパダン人そして西洋人まで多士済々だ。耳をすませば、福建語
・バタッ語・ヒンディ語・ニアス語など、仲間同士で語り合う諸語が聞こえてくる。とこ
ろが仲間でないひととの会話はインドネシア語で共通している。

屋台の商人たちの多くは既に第二世代に交代している。父親から息子や娘に、雇い主から
雇い人にといった形で、最初に作られた商権が相続されているようだ。なにしろ、スマラ
ン通りの中華料理屋台街の歴史は半世紀を超えているのだ。

道路脇を埋め尽くす夜のスマラン通りのこの姿は、1960年代からその前身が始まった。
70年代に人気が高まって充実が進み、80年代には完成したという話だ。最初はプチナ
ンで買い物した後、食べてから家に帰ろうと考えるひとびとが集まって来た。しかしその
うちに、スマラン通りで食べるためにやって来るひとが圧倒的に多くなった。

地元史家によれば、昔はスラバヤ通りにクスマ映画館、パンドゥ通りにジュウィタ映画館、
プガダイアン通りにリア映画館があって、映画帰りにスマラン通りで食べて帰ろうという
ひとびとも集まって来たそうだ。それらの映画館は既にすべてが店をたたんでしまったも
のの、スマラン通りは夜のメダンのアイコンのひとつとして今も定着しているのである。
メダンを訪れたなら、ぜひ夜のスマランへ![ 続く ]