「北スマトラの食(2)」(2021年07月21日)

ところがインド人集落を呼ぶ際のKampung KelingはあってもPekelinganと呼ぶひとはおら
ず、またアラブ人集落を指すKampung ArabはあってもPearabanという言葉を耳にすること
がない。なぜこんな現象が起こるのか?

それは単なる偶然でしかない。pe+cina+anが縮まるのはジャワ語が持っている傾向なので
あり、母音で終わる基語に接尾辞-anが付くと、最終母音が変化する。たとえばWiraguna
+an=Wiragunanとなり、wiが脱落したRagunanは南ジャカルタの動物園がある土地の地名に
なっている。buru+an=buronになり、datuにke-anが付けられるとke+datu+an=kedatonにな
る。

特定種族の集落はpe-anで示されるケースと-anだけが付けられるケースがあって、母音で
終わる2音節語にはpe-an、子音で終わる2音節語には-anだけが付けられる。南インドの
Koja地方から来たインド人ムスリムの集落はPekojanと呼ばれ、バタヴィア旧市街外西側
の地区の地名になって残っている。mataramは3音節語だからmataramanとなり、それが訛
ってMatramanという地名になった。バニュワギにはInggrisanという地区があり、これは
2音節だが子音で終わっているのでプイングリサンにならない。

更にKelinganもArabanも見られないのは、ジャワ人がプコジャンのように別の言葉を使っ
たからだ。一方、ムラユ語ではジャワ語のような形態が作られず、シンプルにカンプン○
○と表現したために、Kampung Cina, Kampung Keling, Kampung Arabという使い分けが行
われている。


メダンへの華人の移住は12〜14世紀にメダンとブラワンBelawanの間の川岸にできた
コタチナKota Cinaという名の港町に遡ることができる。その時代の港町というのは遠く
の土地で産する商品を求めて航海する帆船の物資補給のための寄港地であり、同時にそれ
らの商船が欲しがる商品をそろえた市にもなっていたから、コタチナもたくさんの物資が
集散する豊かな町であったことは疑いあるまい。人間がそのような場所にやってきて一旗
揚げようとするのは古今東西の常識であり、多数の華人が故郷を離れてそこに住み着いた
ことは十分に想像される。

川底の土砂堆積がコタチナの港の衰亡を招き、17世紀にできたデリDeliスルタン国が1
814年に少し離れた場所にラブハンデリLabuhan Deliの港を開いた。そのとき、コタチ
ナは単なる華人集落に変わってしまっていたようだ。そこから去って新天地を求める者、
そこに残って類似の仕事を続ける者や仕事を変える者がきっと入り乱れたにちがいあるま
い。インドネシアで華人系の人間が農耕を行っている姿は多くの日本人の想像を絶する光
景かもしれないが、インドネシアの田舎を走り回って見れば、それほど珍しいものとは思
えなくなる。

メダンに向かう華人移住者の流れが作られたのは、1869年にオランダ人ヤコブ・ニン
ハウスJacob Nienhuysの設立したデリ会社Deli Maatschappijがデリタバコ農園を開き、
農園作業のための労働力を調達した結果だった。最初は地元民を雇用して働かせるつもり
だったにもかかわらず、地元のムラユ人はあまり応募せず、海岸地方へ下りて来るバタッ
人も少なかったために、会社はイギリス植民地ペナンで華人やインド人の募集を行った。
それがメダンにやってきた華人移住者の第二波であり、ほとんどが肉体労働者から成って
いた。

そのうちにデリのさまざまな農園会社は農園労働者としてジャワ人を集めるようになって
いった。ペナン経由での華人の応募が減ったのか、それともジャワ人募集の方がコスト安
だったのか。ともあれ、ヨーロッパ人が開いた農園事業によってデリスルタン国が大いに
経済的に潤ったことから、メダンの町はバタヴィア・スラバヤに次ぐほどの経済都市にの
し上がった。[ 続く ]