「ハローか、ヘローか?(前)」(2022年01月06日)

昔、ジャカルタで日本人の子供たちが「ヘローにへえろう」というダジャレを言っていた。
このヘローは英語のHeroを屋号にしたスーパーマーケットチェーンのことで、インドネシ
ア語式の読み方ではヒーローにならずヘローになる。

英語のhelloを日本人はカタカナで「ヘロー」とも書けば「ハロー」とも書く。本来外国
語のカタカナ表記はtranscription(音を転写)するものだったはずなのだが、いつの間
にか文字を置き換えるひとびとが出現してダブルスタンダードの世界にのめり込み、訳の
分からないものになってしまった。


英語helloの日本語transliteration(翻字)が二種類になっているのはなぜなのだろうか?
音写しようとして日本語にない/he/の音を「ハ」にしたら、不満足派が「へ」を持ち出し
て来たのだろうか?それとも音写派が出した「ハ」に対抗して音を軽視するひとびとがロ
ーマ字/he/に従って「へ」を出して来たのだろうか?

はっきり言って、音写派はないものねだりをしているのだから、どちらにより近いといっ
た主観的議論はやめて、どちらかひとつにしておけばよいではないか。もしもクソリアリ
ストになりたいのなら、翻字をやめてアルファベットで書けばよい。日本人もそろそろ、
アルファベット文字の単語を日本語文の中で使うことに対するアレルギーを乗り越えては
どうだろうか?

文字置き換え派が行っていることについては、ほとんど有用性が見出せないために、わた
しはこのひとびとの頭脳に対してはなはだ悲観的になっている。この種のひとびとがイン
ドネシアのbaksoを馬糞にしてしまったのではなかったか?


ヨーロッパ系諸語の多くは、いや、世界中のかなり多数の国で、電話をかけるときの第一
声がHelloやHalloなどになっている。これは他人の注意を引くために使われる呼び掛け言
葉だ。

インドネシア語がhaloになっているのは、オランダ語がhalloだからであり、インドネシ
ア語にheloというバリエーションはない。(インドネシア人はheloと言わないなどと言っ
ているのではありませんぞ。)

オランダ語やドイツ語はhalloなのだから、日本語のハローはドイツ式だと言って構えて
いればよいのではあるまいか。それを「外国語=英語」人間が無意味な固執をするがゆえ
に、日本人の言語生活は外国語がからむところでやたらと無駄が発生する結果を招いてい
るようにわたしには思える。

一方でマレーシア語は端的にheloを標準語彙にした。インドネシア語とマレーシア語は違
っているのだ。しかしまあ、マレーシア人はhaloもheloの変化形として認めているから、
かれらも日本人と同じ道を歩むことになったようだ。とはいえ、マレーシア人はheloを標
準に定めているのであり、日本人のスタンスとは違っている。


電話における通話開始の合図になった「ハロー」はハンガリーで始まったという話がある。
ハンガリーに電話が引かれた天地創造期、電話機の発明者のひとりであるハンガリー貴族
Tivadar Puskas氏が電話機のテストをしたとき、電話回線の向こう側にいる人間の声がか
れの耳に届いたのでかれはおもむろに送話器に向かって言った。「hallom!」

ハンガリー語のハロムは「聞こえる」という意味だ。きっとかれは電話を受けるたびにそ
う言っていたのだろう。そのうちにハロムがハローに置き換えられてハロムの意味が消滅
し、最初の第一声を示すサインに変わったから、送話者も受話者もハローと言って何らお
かしくない状態が確定した。[ 続く ]