「ワルン(4)」(2022年05月05日)

ヌサンタラに移住して来たインド人や華人の昔の様子に関する資料には、移住外国人が農
耕を行っていたことが記されている。1603〜04年にバンテンのイギリス商館で勤務
していたエドマンド・スコットは、華人は内陸部でコショウ栽培だけをしていたのでなく、
都市部での消費のために米も栽培していた、と書いている。そうなるとそのコメは商品作
物として栽培されていたのだから、流通販売ルートが形成されなければならない。土庫が
無くては済まないだろう。

1611年にオランダ人は、仮設的でない華人のコメ売買場所がバンテンにあることに触
れた。市場のような規模だったとは考えにくいから、多分恒久的な建物の土庫だったので
はないだろうか。だから、上で述べたようなトコが17世紀初期のバンテンにできていた
可能性は小さくないようだ。

もっと後の時代になると、土庫の形状は更に商店風に変化して行く。建物の表にはテラス
が設けられてそこに商品が積み上げられ、通行人の購買意欲をそそる姿を示すようになる。
米を売るトコはトンtongと呼ばれる箱を複数置いてコメを種類別に入れ、コメで山形を作
って客の目を引いた。そんな米屋の姿は今でも在来パサルへ行けば見出すことができる。


ジャワ島のワルンは元々、飲食品を販売する場所だった印象が濃い。1811年から16
年までジャワ島を統治したスタンフォード・ラフルズはThe History of Javaの中で、ジ
ャワ人は昼食・夕食を行うものの、朝食は摂らないと書いた。いや、午前中何も食べない
と言っているのでなく、ジャワ人は家から飲食物を持って田畑へ行き、朝食をそこで食べ
たとラフルズは書いているのだ。

家から飲食物を持って行けなかったとき、かれらはワルンでそれを買った。ワルンはみん
な道路沿いにあった。ラフルズはwarongsと自著の中で綴っている。

ワルンが最初、飲食物を販売する場所であったのは、旅人の需要をとらえたビジネス戦略
が最大の要因として働いたためではなかったろうか。昔から、村に住むひとびとは収穫し
た農産品を車に積んで馬に引かせ、遠方まで商売に出かけた。ヨグヤカルタ特別州グヌン
キドゥル県プンドン郡には、1960年ごろまでそのような旅をする村人が現実にいたと
いう話だ。

長旅をすれば、途中必ず休憩が必要になる。旅人たちはたいてい、道路が交差したり分岐
するところで休憩した。そんな旅人をターゲットにする飲食品ワルンは街道が交差する場
所に店開きした。そのような、昔からワルンが開かれていた場所はたいてい後の時代にパ
サルになった。だからジャワ島のパサルの中には、道路が交差する場所に設けられている
ものが少なくない。


メダン人のノンクロン場所であるコーヒースポットをバタッ人はlapo kopiと呼んでいた
ようだ。一方、インド系プラナカンはkedai kopiと呼び、華人系はkopi tiamと呼んだ。

現在のメダンという都市がかつてデリという名前で発展したときに、多数の民族種族を招
き寄せた。下の人種別人口比に関する資料はメダンという街の一断面をひとつの切り口か
ら見せてくれるものだろう。(数字は%)
人種   1930年   1980年  2000年
ジャワ   24.9    29.4   33.0
バタッ    2.9    14.1   20.9
華人    35.6    12.8   10.7
マンダイリン 6.1    11.9    9.4
ミナンカバウ 7.3    10.9    8.6
ムラユ    7.1     8.6    6.6
[ 続く ]