「植民地の学校制度(2)」(2022年09月26日) ELSの上級学校として、1860年バタヴィアにGymnasium Koning Willem IIIが開か れた。開設当初はそんな名称が付けられ、それを略してKW?(ka-we-dri)と愛称された。 名称はヒムナジウムでも内容は普遍的な中等教育だった。中等レベルの学校網が全国的に 拡大されていく中でカヴェドリはHogere Burgerschool略称HBSと呼ばれるレベル名称 の中に含まれていった。発足当初HBSの修業期間は3年間だったが後に5年間に延ばさ れた。 HBSの全国展開は少し間をおいてから、1875年スラバヤ、1877年スマラン、1 911年バタヴィアにPrins Hendrikschool te Batavia (PHS)、1915年バンドン、1 919年バタヴィアにカヴェドリ分校、スラバヤとバンドンにもHBS分校、1927年 マラン、1928年メダン、1931年ジョグジャ、1937年バイテンゾルフ、バタヴ ィアにキリスト教HBS、1939年マカッサル、またバタヴィアとスラバヤにウルスリ ン修道女HBSと主要都市に続々と設けられた。 1874年からHBSへのプリブミ子弟の入学が可能になっていたから、HBSの全国展 開というのはプリブミ秀才の養成に貢献した面が小さくなかったことだろう。植民地時代 のHBSの歴史を通して、プリブミ卒業生は147人いたそうだ。 HBSが設けられたそれらの諸都市にはまた、HBSとは別にギリシャ語とラテン語の古 典を教えるLyceumも開校した。 一方、HIS/HCSの上級学校として3年制のMeer Uitgebreid Lager Onderwijs略称 MULOが作られ、広範な全国展開がなされて1930年代末にはジャワ島のほとんどす べての県に必ずMULOがあった。しかしジャワ島外はMULOのある県の方がまったく のマイノリティだった。 MULOでも教育はオランダ語が媒介言語に使われ、カリキュラム内の言語教育もオラン ダ語・アラブ語・ムラユ語・地元地方語の四つの言語が教えられた。言語以外には数学・ 幾何学・自然史・歴史・地理などが必須カリキュラムになっていた。 MULOを卒業した生徒はAlgemene Middelbare School略称AMSに進学できた。191 6年に設立が決定されたAMSも修業期間は3年で、授業はオランダ語でなされた。AM SはMULOとオランダ本国の大学の橋渡し的な機能を果たすことになり、東インドにい る大学進学希望者をオランダの大学に受け入れるために必要なレベルの教育がそこで与え られ、AMSを卒業すればオランダの大学への入学資格を得ることができた。しかしこの 後、東インドに大学教育レベルの種々の学校が設けられていったことから、オランダへ行 くことなく、東インドの中で子供に最高学歴を付けさせる親の方が圧倒的に多かったこと は言うまでもあるまい。 1919年にヨグヤカルタに数学自然科学系のAMS−Bが開校し、1920年に文科系 のAMS−Aがバンドンに設けられた。1930年代の東インドにあったAMSは、メダ ン、バンドン、スマラン、スラバヤ、マカッサル、ヨグヤカルタ、ソロ、マランなどで、 いくつかの私立学校にもAMSに準じる資格が与えられた。 ヨグヤカルタのAMS−Bでは1922年に第一回卒業生の修業式典が行われ、ヨーロッ パ人13人、プリブミ14人、華人5人の合計32人が大学進学資格を与えられた。その 中に女性が3人混じっていたとのことだ。12人の卒業生は1920年にオープンしたば かりのバンドンの工学系高等学校THSに進学した。他の卒業生の中にはオランダの大学 に入った者もある。[ 続く ]